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2008.09.15
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カテゴリ:史跡巡り
 街の歴史探索最終日はあいにくの雨ということで、近くの岡山城へ行って来た。“烏城(うじょう)”とも呼ばれる真っ黒なこの城を築城したのは、豊臣家五大老の一人・宇喜多秀家
 秀家といえば、慶長5年(1600年)の今日、9月15日に起こった関ヶ原の戦いで西軍の副大将として1万7千もの大軍を引き連れて戦い、敗戦後は絶海の孤島・八丈島へと流された船

 豊臣恩顧の大名がこぞって東軍に与した中(この恩知らずめッ!)、太閤さんの恩義に報いて石田三成率いる(一応総大将は毛利輝元)西軍に加わったのは、秀家の他に以下の面々がいる。
 打倒家康!を三成から打ち明けられた際はその無謀さに反対したものの、三成の決心が変わらないと知るや、友情に殉ずる決断をして参戦した、三成の親友・大谷吉継。キリシタン大名・小西行長(かつては秀家の父・宇喜多直家に仕えていた)に、禅僧大名・安国寺恵瓊。他にも島津義久小早川秀秋らも西軍についていた。
 午前8時、いよいよ合戦開始。しかし毛利・島津・小早川らは動かず、実際に戦っていたのは石田、宇喜多、小西、大谷隊の3万6千ほどだったが、倍する東軍の兵と互角に戦っていた。
 そしてお昼になろうかという頃、既に徳川と内応していた小早川隊がまさかの裏切り!びっくり
麓にいた大谷隊目掛けて突進してきた。が、予め小早川秀秋を怪しいと睨み、この動きをある程度予想していた大谷吉継は6百の直属兵で迎撃し、1万5千の小早川隊をかなり押し戻した。
 すると今度はその小早川隊を防ぐために配置されていた脇坂安治赤座直保ら4隊までもが寝返って大谷隊に攻めかかってきた!これには流石の吉継も防ぎようがなく、大谷隊は壊滅。業病(ハンセン病)が進み、この頃には目も見えず、体も不自由であったため輿に乗って果敢に指揮していた吉継は、ついに自刃涙ぽろり
 これで一気に形勢が逆転し、ついに西軍は崩壊した。

 …敗れた西軍の将にして岡山城城主であった秀家は八丈島へと流され、代りに入城したのが、西軍敗北のきっかけとなった裏切り野郎・小早川秀秋だった。しかし、2年後の慶長7年(1602年)、秀秋は21歳の若さで精神を病んで死去し、小早川家は断絶したのであった。 





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Last updated  2008.09.16 04:53:27
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