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2020.03.11
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カテゴリ:史跡巡り
宝暦4年(1754年)~宝暦5年(1755年)、氾濫・洪水を繰り返す木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水を幕府より命じられ、数多の犠牲者(51名自害、33名病死)を出しながら難工事を完遂した薩摩藩の悲劇を描いた、杉本苑子さんの直木賞受賞作「孤愁の岸」。大好きな歴史小説のひとつである。
 私がこの『宝暦治水事件』について知ったきっかけは、森村誠一さんの「人間の剣 江戸編(3) 天下の落胤」の中の「泥まみれの士魂」という話で、主人公は、外様大名の勢力撲滅政策として、幕府から寝耳に水の普請手伝いを命じられ、窮地に陥った薩摩藩を一身に担い、治水工事を完成させた薩摩藩筆頭家老にして総奉行に任命された平田靱負
 当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出したが、財政担当家老であった平田さんは強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を宝暦4年に幕府へ送った。 
 当初10数万両ほどと見込まれていた工事費用は最終的に40万両ほどに膨れ上がり、工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、また数多の犠牲者を出してしまったこともあってか、平田さんは工事が無事終了した後、国許への報告書をしたためて自害したとされる。
 宝暦治水に関するこの2作品で、私の心を最も打つのは、若き薩摩藩第7代藩主・島津重年公なのである。宝暦3年12月25日、幕府より濃尾治水の手伝普請(監督、設計は幕府が行い、経費と人夫を大名が負担する)を命じられた時、重年25歳。無茶な幕命を受けざるを得ず、断腸の思いで家臣たちを縁もゆかりも無い遥か遠くの濃尾へと送ることとなる。
「ご奉書、拝見いたし候。濃州勢州尾州川々御普請手伝ひ仰せつけられ、有難きし合せに存じ奉り候。尤もこの節、参府に及ばざる旨仰せ下され、畏み奉り候。右御請け申し上ぐべく、飛札を呈し候。恐々謹言。正月二十一日 松平薩摩守」
 この約2週間後、重年の奥方・村子の方が23歳の若さで死去。嗚呼…。
 7月5日、重年は一子・善次郎(重豪)を世継にと幕府に届けることを名目に、わざわざ治水工事の現場を視察に訪れ、藩士を励ますために懐かしい薩摩焼酎を各出小屋(工区を四つに分け、それぞれの工区に建てた寝泊りする小屋)に賜ったという…(T T) でもって、どちらの小説にもこの時、重年が流行の疫病で苦しんでいる病人の隔離小屋を自ら見舞うエピソードが描かれており、涙なくしては読めないのである。
 宝暦5年5月22日、最大難場であった四ノ手の油島千間堤の検分が無事終了。国許への工事完了報告書を書き終えた平田さんは25日自害。享年52歳。
 6月1日、重年は幕府に対して工事竣成届を提出。
「濃州勢州尾州川々御普請手傳仰付け置かれ候場所、残らず成就仕り、先月二十二日迄に見分相済み、小屋引拂ひ、差出し置き候家來共、追々引取り候旨申越し候。此段御届申上候。以上」
 6月8日、重年は江戸藩邸にて平田さん自刃の報告を病床で受け、悲涙に咽んだという。
 6月13日、幕府は重年に対して大普請御手伝成就の功を賞すも、重年は病床にあって身動きが出来なかったため、名代が登城。
 6月16日、重年卒去。享年27歳。

 この心優しき青年藩主の身も心も苦しめた宝暦治水の地を、木曽三川を、自分の目で見てみたいと常々思っていた。そしてついに、その機会が訪れたのである。
 というわけで、世界中が新型コロナウイルスに怯える最中の3月8日、三重県桑名市に向けて出発した。
 岡山から新幹線で名古屋へ、名古屋からは快速みえで桑名へ。途中、木曽川、長良川、揖斐川を車窓から眺めたが、三川ともデカい。こんな大きな川の工事を人力でやる羽目になった薩摩藩士達の胸中を慮り、若干暗澹たる気分になるも、それを見事成し遂げた偉業に心から感嘆した。





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Last updated  2020.03.12 12:24:39
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