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テーマ:皇室(569)
カテゴリ:政治
YouTubeで、皇室物語さんが制作された大正天皇と、実母の柳原愛子さんのお話しを視聴しました。丁寧でわかりやすい解説でよかったです。
明治時代、なかなか明治天皇にお世継ぎの男子に恵まれず皇室が存続の危機にあったそうです。そんな中で側室の柳原愛子さんとの間にお生まれになった大正天皇は幼少時から病弱でいらっしゃったそうです。しかし、ご結婚され、4人の男子をもうけられ、皇室を次世代に引き継がれました。また、国内各地を行啓されたり、韓国を訪問されたり、漢詩を好まれ、ハングルを習得されたそうです。 とかく明治と昭和に挟まれ、あまり日の当たらない大正ですが、こういったコンテンツがあると親しみがわいてきます。 ■参考リンク Wikipedia:大正天皇 大正天皇(たいしょうてんのう、1879年〈明治12年〉8月31日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)は、日本の第123代天皇(在位: 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)。諱は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)[2]。 1879年(明治12年)8月31日誕生。明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)であるものの、生誕時より病弱で幾度も大病に罹った。幼年期の個人授業の後、学習院初等科に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中途退学。8歳で儲君、11歳で皇太子となる。皇太子妃選定における混乱(大正天皇婚約解消事件)を経て九条節子と結婚し、後の昭和天皇をはじめ4人の皇子(皇男子)をもうけた。また、皇太子時代には沖縄県を除く各道府県を巡啓したほか、1907年(明治40年)には史上初の皇太子の海外渡航として大韓帝国を訪問した。1912年(明治45年/大正元年)7月30日、父・明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位。憲政史上及び大日本帝国憲法下で初めて皇位を継承した。生誕まもなく髄膜炎を患っており、その後健康を取り戻していたが、即位式の翌年頃から健康状態が悪化し、公務のみならず日常生活にも支障を来すようになる[3]。1920年(大正9年)以降、病状が公表され世間に知られるところになり、1921年(大正10年)、長男の皇太子裕仁親王が摂政に就任し、療養生活に入った。しかし、その後も体調は回復せず、1926年(大正15年/昭和元年)の暮れの12月25日、肺炎に伴う心臓麻痺[4]のため、47歳で崩御。 Wikipedia:柳原愛子 生涯 1870年(明治3年)、皇太后宮小上臈として出仕して英照皇太后に仕えた[1]。同年6月、掌侍(勾当内侍)となって従五位に叙された[1]。1872年(明治5年)に中山慶子の推挙によって明治天皇の御所に出仕し、翌1873年(明治6年)2月に権典侍となった[1]。同年5月に、正五位[1]。 容貌秀麗かつ賢婦人であり[7]、明治天皇の後宮で寵愛を受け、第二皇女・薫子内親王、第二皇子・敬仁親王、第三皇子・嘉仁親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。 明治時代には、計3回、歌会始で詠進歌が選歌に入った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.06 14:21:27
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