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テーマ:仏教について思うこと(1100)
カテゴリ:宗教
YouTubeでも観られるんですが、三木大運住職の本が好きで5巻まで持っています。先日7巻が発行されたので、セールで6巻にポイントがアマゾンで結構ついたので買ってみました。
三木住職のお話で一番好きなのが、この「黒いシミ」の話です。人間は、知らず知らず、あるいは自分ではそれほど悪いとは思わずに、人に危害を加えたり、あるいはよくないことをすることが在ります。そういったことで他人から自分への良くない感情が溜まって、ある時点でそれが自分に悪い方向で一気に表面化することがあるかもしれません。それに気づいた時点で、同様に悪いことをしていた他の人たちへお詫びして償ったことで主人公は平常に戻ります。大谷大学の先生の「同じように罪や障りが多ければ多いほど、後に得られる功徳も多いのです。」というのは、このことなのかと思います。 ■参考リンク 「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」親鸞『高僧和讃』 (『真宗聖典』493頁):大谷大学 きょうのことば - [2010年05月] 抜粋 「罪や障(さわ)りは、そのまま功徳のもとになるのです。その関係は氷と水のようであり、氷が多ければ多いほど、溶けたときの水は多くなります。同じように罪や障りが多ければ多いほど、後に得られる功徳も多いのです。」 仏教では、「罪」とは煩悩によって作り出される悪の行為を言います。「障り」とはさとりの障害になるという意味です。ですから、罪・障りは功徳に反するもののように思われます。ところが、親鸞はそのような罪・障りが功徳のもとであると述べます。更には、その罪・障りが多ければ多いほど、それが転じたときに得られる功徳が多くなると言います。つまり、親鸞は罪・障りがあるからこそ、功徳が得られるということを述べているのです。 私たちは生きていく中で、様々な困難にぶつかります。いままさに思い通りにならない現実にぶつかって苦悩している人もいることでしょう。また、時には思いがけず過ちを犯したり、失敗をしたりすることもあります。私たちは出来ることなら、失敗や苦悩することなく、楽しく生きていきたいと思います。しかし、失敗したり苦悩したりすることは、決していけないことや悪いことではありません。それらはやがて自分を育て、成長させていくという一面があるとも言えます。そのように捉えられたとき、失敗や苦悩に対する価値転換が生まれるのではないでしょうか。 怪談和尚の京都怪奇譚 妖幻の間篇 (文春文庫) Kindle版三木 大雲 (著) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.08.23 22:25:21
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