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カテゴリ:神社
元は金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)であった。 南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け,一時居所とした。後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した。 明治の神仏分離の際に僧坊・吉水院は廃され、明治8年(1875年)に後醍醐天皇を祀る神社として吉水神社に改称していた。 後醍醐天皇のほか、源義経や豊臣秀吉ゆかりの地でもあり、多くの文化財が所蔵されている。神社の本殿は旧吉水院護摩堂であり、隣接する書院には、後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間があり、重要文化財に指定されている。 石段を上り、山門へ 山門 中門 正面が書院(重文) 右が吉水神社 弁慶力釘の石碑 左中央と右中央に釘の頭が見える 弁慶は、5寸釘位の鉄鋲を指で押さえて、石に突き込んだという。 ここに花見で宿泊していた秀吉は、これにあやかり、「力をくれ!」と釘を撫でたという。 (私も同じ思いで、撫でながら、原発を対応している関係者の安全を祈願しました。) 吉水神社 神社内 古そうな狛犬 祭壇 書院に入った所 「群鶴」の襖絵 美しい色彩が残っています。 右端が弁慶思案の間 中央上段が源義経潜居の間 文治元年(1185年)源義経は、兄頼朝の追っ手を逃れ、静御前、弁慶とともに一時 吉野に潜居されていた。 「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」 後醍醐天皇の玉居 秀吉も花見の時に使用したという 美しい色彩が今も残されている 若き日の後醍醐天皇 壮年期の後醍醐天皇 「花にねて よしや吉野の吉永の 枕の下に石走る音」 日本三秘仏の1つ 灰佛弁財天 弘法大師(空海)作 伝教大師(最澄)作 源義経の鎧 この時代の体格は小さいですね。 他にも、静御前の着物もありました。 役行者は、鬼を自在に操ることができたというので、前鬼、後鬼と三役になっています。 四種の色々な鷹の図の描かれた襖の1つ 秀吉が花見に使用した金屏風 右手前は、狩野永徳筆「桜の図」 書院 玄関 ここ吉水院が、秀吉の吉野の花見、能の会、歌の会等の本陣となった。 北闕門(ほっけつもん)」 門であるが、通り過ぎると谷底! 見晴らしは良い。 この門は修験者(山伏)が大峯山に修験に行く時安全祈願をした門でもあり、後醍醐天皇が毎日この門から御所に帰れるのを祈願していたという。{北(京都御所)の方向を向き} 「玉骨(ぎょこつ)は、たとえ南山(吉野山)の苔に埋むるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕の天を望まんと思う」と言われたと説明がありました。 今は、霊気を感じるこの場所は、力を貰えるパワースポットとなっており、左前の五芒星の上で祈願をし、その後、右後ろの格子の場所で、「臨兵闘者皆陣烈在前」(九字真法)を唱えると邪気が払われ、力が頂けるという。 原発の関係者、地震津波の被害者に力を頂けるように、真っ先に祈願しました。 吉水神社境内より「一目千本」 中、上吉野付近の桜が見える(咲いてないが) 以上
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