生活の発見誌2月号に長谷川洋三氏に次のような記事がある。
言葉というものは、不都合なものであります。
「自分は初めての人に会うと胸がドキドキしてものが言えないことがある」と言えば、ある条件下のある状態のことでありますが、 「自分は対人恐怖だ」と言えば、自分イコール対人恐怖ということで、全人格的なレッテルとなります。
しかし、事実はどちらかと言えば、当然前者、ある条件下のある状態であります。
そして、この事実は全く自然なことで、少しも異常ではないのであります。
だから、私はあまり簡単に「私は対人恐怖だ」とか「私は不眠恐怖だ」とか「私は雑念恐怖だ」とか、レッテルを貼るような言葉を自分で言わない方がよいと思います。
言うときには、もっと事実を具体的に言った方がよいと思うのです。
知らず知らず、言葉の魔術に引っかかってしまうからです。
これは集談会の自己紹介の時によく見かける光景である。
「私は対人恐怖症です」「私は不安障害です」「私は疾病恐怖」ですと一言で自分の症状を紹介する人がいる。自分のことを「対人恐怖症者」などとレッテルを貼っているのだ。
これでは初めて参加した人にとって、全く理解不能である。参考にならない。
そのように自己紹介している人にとっても、神経症の克服には結びつかないのではないか。
自分をそのように決めつけていては、いつまでも人間関係に振り回されて、生きづらさは解消できないのではないでしょうか。
レッテル貼りの弊害はあらゆるところに及ぶ。
例えば仕事でミスをすると、「自分は何をやってもダメだ」「自分の人生はもう終わったようなものだ」「会社を辞めてしまいたい」などと極端に飛躍して悲観的に考える。
誰もがしている小さなミスが、自分の人生を左右するような大きな問題になるのだ。
楽器の演奏を間違えたとき、スポーツで負けたとき、カラオケがうまく歌えなかったときも、自分の全人格がダメだと決めつけてしまう。
実際にはその一部分がダメなだけであって、全人格に波及するようなものではない。
10の弱みや欠点があれば、10の強みや長所があってつり合いがとれているのが人間なのだ。
だから対人恐怖症の人は、どんな場面で、どんな相手から、どのようなことを言われて、不安になったとかイライラしたという風に、事実を具体的に赤裸々に紹介する必要がある。
そうすれば、相手にもよくわかるし、自分にとっても、対人恐怖症の改善に結びつく可能性が出てくる。
レッテル貼りをする人は、自分の弱みや欠点が相手に知られることを恐れていて、できるだけ隠そうとしているのかもしれない。だから抽象的であいまいなままにごまかしているのかもしれない。
しかし事実に真剣に向き合うことを避けているので、ますます「かくあるべし」が強化されて思想の矛盾で苦しむようになるのである。
そういう態度では、神経症を克服して、生きづらさを解消することはどだい無理な話である。
事実は、隠したり逃げたりしないで、具体的、赤裸々にを心がけるだけで事態は好転する。