鶏頭の十四五本もありぬべし
子規の病床での俳句で、よく知られている句ですね。
まろさんの日記で知ったのですが「鶏頭論争」なるものがあったようです。
鶏頭は何本あればいいのか? より
この句を最初に評価したのは歌人の長塚節である。長塚節は「この句がわかるものは現代の俳壇にはいないだろう」と斉藤茂吉に語ったと言う。次いで斉藤茂吉が絶賛した事により、この句の賛否両論が起こり後に「鶏頭論争」と呼ばれる論争を生む事になる。
大岡信は評価がまちまちになってしまう最大の原因は「下の句の『ありぬべし』という言い方にひそむ未完結性の印象、思わせぶりともとられかねない独り言の印象にあるだろう。乱暴なことばをいえば、この五七五の下に七七がつかないと完結しないような感じが、この句にはあるとさえいえる。一首の短歌になりそうなものが、中途でぶつりと切れたまま差し出されているような感じが、この句にはある。虚子や碧梧桐のような俳人がこれを認めず、節や茂吉のような歌人がこれを賞賛したことも、思い合わせてみれば興味がある」と別の視点から指摘している。
その後、山本健吉の説によって、鶏頭の句は子規の代表作として定着する事になる。
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<ドングリ書込み>
今日たまたま付けっぱなしのEテレで「俳句王国がゆく」を観たのですが、気が利いていて、優しい評決に好感を持ったしだいです。
世の中が減点主義でギスギスしているだけに、特にそう感じるわけですね。
だいたい「俳句王国がゆく」という番組が成り立つだけでも、世界をみわたしても稀有な国なのかも知れません。
この「鶏頭論争」のほうは俳句のプロが争うもので、レベルが違い、多少衒学的ではないかとさえ思うけど・・・・詩歌の解釈で争うなど、やはり稀有なことですよ。
<まろさんの返事>
五・七・五という世界にも類がないと思われる超・短詩形文学。俳句ってほんとにすごいと思います。
人に対して、巡りくる季節に対する挨拶としての俳句、という考え方が好きです。
気軽に詠めるようになればいいのですが、最近では浮かびもしません。意識的になることも必要なのでしょうかね。