借出し予約していた『在日の地図』という本を手にしたのです。
マンガの頁が半分くらいあり、写真も満載で読みやすいのだが・・・
全国のコリアタウンの情報が広範囲、かつディープであることに驚いたのです。
【在日の地図】
山野車輪著、海王社、2006年刊
<「BOOK」データベース>より
何処から来て何処へ往く!?在日韓国・朝鮮人とは何者なのか?『マンガ嫌韓流』山野車輪の待望の最新作。
【目次】
東日本のコリアタウン(古き佳き関東在日韓国・朝鮮人の集住地区ー三河島(東京都)/JR千葉駅移転の謎解くキーストーンー千葉市栄町(千葉県)/在日VS東京都 朝鮮学校訴訟に揺れる街ー枝川(東京都)/重工業と共に歩んだ大規模コリアタウンー川崎市桜本・浜町・池上町・戸手(神奈川県) ほか)/西日本のコリアタウン(闇市起源の巨大コリアマーケットー大阪市鶴橋(大阪府)/在日韓国・朝鮮人の聖地、全ての道は猪飼野に通ずー大阪市桃谷(大阪府)/大震災から蘇った驚異の生命力ー神戸市長田区(兵庫県)/傷跡残した民団・総連の共同暴走危険行為ー相生市・三木市(兵庫県) ほか)
<読む前の大使寸評>
この本は、マンガの頁が半分くらいあり、写真も満載で読みやすいのだが・・・
全国の在日の情報が広範囲、かつディープであることに驚いたのです。
近場の長田区、焼肉の鶴橋が、個人的には興味深いのです。
<図書館予約:(7/01予約、7/05受取)>
rakuten在日の地図
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この本は、東日本および西日本のコリアタウンの探訪記となっているのだが、そのうち京阪神地域のコリアタウンを見てみましょう。
<西日本編概説>よりp115~117
戦前期において半島と日本との連絡が、「釜山~下関」航路と「済州島~大阪」航路の2系統だったため、必然的に朝鮮人の集住地区は、西日本に偏重することになる。
特に大阪を中心とした京阪神地域は、日本全体の視点から比較してみても、在日韓国・朝鮮人の本場としての地位は揺るぎようがない。
コリアタウンとしての密度は濃厚そのものであり、もはやランドマークとしての総連・民団施設探しなど、あまり意味がないほどである。犬も歩けばいつのまにかコリアタウン。鶴橋、桃谷、尼崎。京都東九条にウトロ地区。あまりにも有名な、なかば観光地と化しつつあるこれらのコリアタウンに探訪ロマンの余地など残されていないのだ。
ここでは、東日本のコリアタウンとの対照が興味深い。特に総連施設が意気軒昂である。北朝鮮の無道が明るみに出るにつれ、東日本の総連施設は人の気配も感じさせないないほどに静まり返っているか、もしくはNPO法人や朝鮮食材店などに偽装しているケースが目立つ。対してこちらは正々堂々、「朝鮮会館」や「在日本朝鮮人総連合会〇〇支部」など、本来の看板を掲げたままだ。総連、いまだ健在なのである。
しかし、いま総連がいくら気を吐いてはいても、次代の「総連エリート養成機関」である朝鮮学校については、また話が違う。全体として児童・生徒数は長期減少傾向にあり、京阪神地域においては堺市、岸和田市、また西日本エリアに目を向ければ、松江市や相生市、九州飯塚市などで閉校が相次いでいる。
「阪神教育闘争事件(神戸市)」に象徴されるように、戦後の朝鮮人は攻撃性を剥き出しにして懸命に「朝鮮学校」を守り育ててきた。彼らの先人たちは、いまの先細り状況をどう感じるのだろうか。
取り壊されることもなく、草むし苔むす一方の廃校。少なくとも総連系の在日朝鮮人に関しては、極めて近い将来に日本社会から退場することになるのだろう。総連の墓標ともいえる廃校を見るにつけ、誰しもそう感じるはずだ。総連は歴史的な役目を終えたのである。
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<鶴橋>よりp127
このように、猪飼野地域への朝鮮人集住には諸説あるのだが、少なくとも平野川の開削工事において、いわゆる「強制連行」説に見られるような労働者への強制性は全くない。時期を見れば、1938年の国家総動員法以前であって、当時は急増する朝鮮人の渡航制限を実施していたほどだった。そもそも同事業は鶴橋耕地整理組合という民間団体による土地改良事業であって強権的な色合いなどあろうはずもないのだ(『猪飼野郷土史』)。
では、最も真実に近い説明は何か。何よりも鍵を握るのは、済州島と大阪を結ぶ定期船「君ヶ代丸」の就航が鍵を握る。『異邦人は君ヶ代丸に乗って』では、「済州島出身の人は他ではいじめられたりして、生活しにくいこともあり、どんどん猪飼野に集まってくる。ここだと済州島出身者がのびのびと生活できるということもあって済州島出身者でほとんどが占められるようになっていったのです」との記述がある。
総じて済州島民は大阪を目指し、この地に身を寄せ合い、彼らの共同体を育ててきたのである。在日二世であることをカミングアウトしている歌手の和田アキ子の両親は、済州島から大阪に渡ってきて鶴橋で料理店を経営している典型的な出稼ぎ型の朝鮮人だった。鶴橋在住の朝鮮人家庭で同様のケースは非常に多く、そのため鶴橋は「済州島より済州島らしい」と韓国人からも形容されるほどである。
かつて田畑が一面に広がる郊外だった鶴橋は、大阪鉄道(現・JR大阪環状線)が開通するとともに、急速に人口増と都市化の波に洗われた。戦災で焼け野原になってはいるが、戦後もその成長力は衰えず、大阪最大級の規模を誇る闇市が出現している。その規模は500人~600人の売り子がいたという。
現在の鶴橋駅周辺の猥雑この上ない巨大市場は、当時の闇市を直接の原型としている。この街では、当分「戦後」が終わりそうにない。
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<大阪府桃谷>よりp134~137
生野区の韓国・朝鮮人人口が、全住民の25%に達するというのはあまりにも有名な話だ。日本一のコリアタウン猪飼野は、東成区の鶴橋駅周辺と、生野区の桃谷・中川・中川西などの広範囲なエリアから成り立っている。
(中略)
戦前の桃谷一帯には朝鮮市場があった。1925年に開設された鶴橋公設市場を核として発展し、順次東へと拡大していったのである。間口一間半・奥行き二間ほどの小規模な店舗兼住宅が30軒ほど並んでおり、最盛期は毎月の1日と15日に10人の警察官が交通整理のために出動するほどだったという。
現在、地域のメインストリートである御幸通り商店街は、コリアタウンとして観光地化されている。在日韓国・朝鮮人商店の域内分布としては、東の区画が50%程度、中央部は75%、西は30%程度だという(『猪飼野郷土史』)。
もともと猪飼野地区を形成している生野区と東成区は、自営業者の比率が高く、1985年の国勢調査では生野区が35%、東成区が31.3%という結果が出ている。済州島から出稼ぎにやって来た朝鮮人たちは日本語を巧く話せないことから企業に就職することができず、自営業の道を選ぶしかなかった。そして二世・三世の家業継承で状況は固定化されていった。
(中略)
こうして鶴橋・桃谷は日本最大のコリアタウンとして、今日も多くの在日韓国・朝鮮人でにぎわっている。済州島から出稼ぎにやって来た朝鮮人にとって、君ヶ代丸はまさに日本への箱舟だったといっていい。
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<神戸市長田区源平町>よりp146~147
神戸市といえば、戦前戦後を通して日本有数の朝鮮人集住地区である。1929年に行われた神戸市社会課の調査では、「1軒の労働下宿の存在はやがては多数朝鮮人の流入を刺激し、多数朝鮮人のイ集はやがては更に労働下宿の開店を促す」と、急速に進む朝鮮人流入状況について報告している。
彼らの日常生活は極めて切迫したものであり、度々生活保護の受給を求めて運動を行っていた。『兵庫のなかの朝鮮』では、1953年に兵庫県警が発行した『警察年鑑』からその様子を紹介している。「朝鮮人の生活は極度に窮迫している。したがって、生活保護法による被扶助者も存在総数の21%強に達し」ていたという。
彼ら貧困層は、特に長田区周辺に集住していた。1950年には800名の朝鮮人が長田区役所に向けてデモを行い、179名が逮捕されている。
こうした朝鮮人の攻撃性は戦後しばらくの間全国各地で発揮されていたが、特に兵庫県においては一際戦闘的な傾向を持っていた。1948年4月24日、いわゆる「阪神教育闘争」事件である。
終戦後の10月、兵庫県の在日朝鮮人たちによって飾磨朝鮮初等学院が早くも開校した。翌年6月には、日本初の朝鮮人中学校が開設。全国で続々と朝鮮人学校が開校するきっかけとなっている。『兵庫のなかの朝鮮』によると朝聯系の学校は573校、生徒数は5万6000人を超えていた。
1948年、GHQは共産主義の巣窟と化していた朝鮮学校への閉鎖命令を下すが、朝鮮人から激しい反対運動が沸き起こり、特に神戸での反対運動は凄絶を極めた。混乱収拾のために、GHQは神戸全域に非常事態宣言を発令せざるを得ないほどだった。逮捕者は1732人に上がったという。
ただし、貧しい朝鮮人の全てが反社会的な行動を取ったわけではない。手に職をつけ、地道に働き、地域に溶け込もうと努力する朝鮮人の姿を忘れてはならない。戦後から現代にかけての厳しい経営環境を生き抜いてきた。神戸市長田区のケミカルシューズ産業の経営者や労働者は、その好例だろう。彼らの多数は1995年の阪神・淡路大震災で被災し、同産業は壊滅的な打撃を受けた。当時行政の迅速な支援が行われたのは、彼らの性向と無関係ではないだろう。
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京都の在日といえば、『パッチギ!』を思い出すのです。
<京都市東九条>よりp164~167
『京都に生きる在日韓国・朝鮮人』(京都市国際交流協会)によれば、既に1906年の京都においても、山陰本線敷設工事に、数十人の朝鮮人労働者が従事していた。山陰地方の山間部を貫くこの工事は、国家を挙げての一大プロジェクトだったために工員が不足しており、そうした労働力不足を補ったのが、朝鮮半島から職を求めてやって来た朝鮮人だったのだ。
当時、鉄道網の整備は大阪・京都で盛んに行われており、1927年には新京阪電鉄の工事にも多くの朝鮮人労働者が従事し、労働争議なども頻繁に行われていた。
(以降、文字数制限により省略、全文はここ)
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