図書館で『縄文農耕の世界』という新書を手にしたのです。
おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪
照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)
【縄文農耕の世界】
佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊
<「BOOK」データベース>より
農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか?
著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。
本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。
<読む前の大使寸評>
おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪
照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)
なお、著者は『ジャポニカ長江起源説』を著わしたイネ考古学の権威とか。
rakuten縄文農耕の世界
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「ヒエ日本原産説」あたりを見てみましょう。
<ヒエは日本列島原産か>p84~86
ヒエといえば、今では水田の雑草か、あるいはとるに足りない穀物の一つと考えられている。それは、アワ、キビ、モロコシなどとともに「雑穀」という名称で総称される穀物である。
「雑穀」とは何だろうか。日本語で「雑」という字を使うとき、そこには、重要でない、その他大勢、とるに足りないといった消極的なイメージがつきいまとう。「雑穀」もまさにその一つで、イネ、ムギなどの主要穀物以外のとるに足りない穀物という意味でもある。
アワ、キビ、ヒエなどとひとつひとつに名前はついているものの、名前で呼ばれることはむしろ少ない。農学部の先生でも、特別の専門家でもない限りアワとヒエを区別することはできないし、マシテヤイヌビエとタイヌビエを区別することなど絶望的である。
この、雑穀といわれる植物たちが、いつ、地球のどこで栽培化されたものか、わかっていることはわずかしかない。アワについては、考古学的な論証から、北部中国、いわゆる黄河文明の発祥地とその周辺が疑われてはいるが、生物学的な検証は行われていない。キビになると事態はさらに深刻で、何もわかっていないという表現のほうがぴったりする。
この手に負えない代物に果敢に挑戦したのが、『雑穀のきた道』の著者である竜谷大学の坂本寧男さんである。坂本さんは・・・こういう先輩に対してたいそう失礼な言い方になるが・・・、研究者としてもちょっと変わった方でおられる。だから雑穀などという、人が見捨てたものに光明を当てることができたのだと思うが、その坂本さんが十年余り前に人を驚かせる発言をしたことがある。
ヒエが日本列島原産だというのである。坂本さんは、ヒエといわれる植物を、日本を含む東アジアに分布するタイプとインド亜大陸を中心に分布するタイプとに分けた。そうしてその上で、遺伝学的な見地からヒエの起源を次のように考えた。
坂本さんのことばを引用しながら考えてみよう。
「従来から(ヒエが)中国東部で起源したという考えがあったが、現在までに考古学的にそれを証明するような遺物は中国では出土していない。また、詩経、本草綱目などにも栽培ビエの記述がないので、中国においてはその栽培の歴史が新しいと考えられる。(中略)
(ヒエは)おそらく日本で栽培化され、その後朝鮮、中国に栽培雑穀の一つとして導入されたと考ええる説があり、私はその可能性はきわめて高いと考えるようになった」(『雑穀のきた道』128ページ)
この坂本発言がきっかけとなって、ヒエが日本列島原産ではないかという「ヒエ日本原産説」はしだいに定着しつつある。ヒエだけではなく、アワ、キビなどといった雑穀全般への関心がようやく高まりつつあるのである。
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縄文農耕の核心部分「イネはあったか」あたりを見てみましょう
<イネはあったか>p103~107
縄文農耕の要素の一つとして常に注目を集め、また常に強い批判にさらされてきたのが「縄文稲作」である。しかし最近の研究成果を客観的に眺める限り・・・そのウェイトはともかくとして・・・、縄文時代にイネと稲作があったことは紛れもない事実といわざるを得ない。
詳しい議論は別の機会に譲るとして、現時点では、日本列島における稲作は縄文時代の前期にまで遡ると見るのが自然である。もちろん私は、縄文時代の水田が発見されていないという事実を知らないわけではない。縄文時代には、晩期後半の一時期を別として、水田に相当する遺構が見つかっていない。だから、この時期を別として、縄文時代に水田稲作がなかったとすることに私も異存はない。
しかしイネは私たちが今日本で見るような水田でしか栽培されていないのかといえば決してそうではない。私たちが知る水田稲作以外の稲作は世界にはいくらでも存在する。いや、私たちの水田稲作は世界の稲作の中ではごく特殊な、大勢のなかの一人に過ぎない。
特に、東南アジアの山奥深い地域にいまも残る焼畑の陸稲栽培は縄文稲作のモデルとして十分参考にすべき稲作である。あるいはカンボディアやベトナムの一部で実際に見られる稲作の中には、私たちの常識ではおよそいいかげんとしかいいようのない稲作のスタイルをとるものさえ残されている。
(中略)
水田の有無はともかくとして、現時点で、縄文時代に稲作があったらしいことを示す証拠があがっている。各地の遺跡から出土したプラントオパールがそれである。プラントオパールはイネの葉に溜まったケイ酸の塊が出土したもので、その存在はイネの葉がそこにあったことの強い証拠となる。イネの葉があったということはそこで稲作が行われていたことを彷彿とさせる。
せれで、遺跡の土の中からイネのプラントオパールを探し、それによって稲作の跡を証明しようというプラントオパール分析が考え出された。プラントオパール分析の詳しいことは考案者自身が書かれた優れた書物(藤原宏志『稲作の起源を考える』岩波新書)があるのでそれを参考にして頂くことにして、私たちは話を前に進めることにしよう。
さて、縄文時代の遺跡から出土したプラントオパールはどれくらいあるか。これについては皇學館大學の外山秀一さんの優れたまとめがあるのでそれを参考にさせて頂く。外山さんたちによると1999年秋現在、晩期後半を除く縄文時代の遺跡から見つかったイネのプラントオパールの事例は表2-1にある31点に上る。他にも籾や土器についた籾跡などを加えるとその数はさらに大きなものとなる。縄文時代にイネと稲作があったことはほぼ疑いのない事実である。
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