図書館で『ラノベ日本書記(芸術新潮2月号)』という雑誌を、手にしたのです。
この本では、古事記と日本書紀の違いについて、詳細に語られているが・・・どちらも今まで神話の類と思っていた大使でおます(汗)
【ラノベ日本書記(芸術新潮2月号)】
雑誌、新潮社、2020年刊
<商品レビュー>より
特集はラノベ日本書紀。一時話題になったラノベ古事記の著者・小野寺優氏の歴史書ノベライズシリーズ。なんとなし興味はあったがわざわざ読むまでも...と思っていたが、これがわかりやすいのが意外。学校で習ったかも知れないが、もはや覚えてはいない建国物語が、令和の口語体として執筆されている。ただそれが今風すぎて...というわけでもない。
<読む前の大使寸評>
この本では、古事記と日本書紀の違いについて、詳細に語られているが・・・どちらも今まで神話の類と思っていた大使でおます(汗)
rakutenラノベ日本書記(芸術新潮2月号)
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日本書紀のQ&Aを、見てみましょう。
p19
ここが知りたい日本書紀:遠藤慶太
Q:『日本書紀』ってどんな書物?
日本最初の「正史」=「公式な歴史書」で、『日本書紀』の完成を時の元正天皇に奏上する記事が、2番目の正史である『続日本紀』にあります。
「これより先、一品(の位にあった)舎人親王が天皇の命令をうけたまわり、日本紀を編纂なさった。ここに至って完成し、紀30巻、系図1巻を奏上なさった」というのがそれで、いまからちょうど1300年前の養老4年(720)5月21日のこと。
ここに記されているとおり全30巻が伝わりますが、系図1巻は速いうちに失われてしまいました。また記事には「日本書紀」ではなく「日本紀」とあります。どちらの名称が正しいのか、あるいは同じものを指すのかという議論が昔からあるのですが、私は両者は同じもので、当初からふたつの名称があったということでよいのかなと思っています。
30巻のうちはじめの2巻には神話が記されています。第3巻以降は、初代神武天皇から第41代持統天皇まで、皇后1人を含む計40人の事績が、その治世ごとにまとめられています。天皇ごとに区切って編年(年代の順)で記述していくスタイルは中国の歴史書の「紀」の部分に倣ったものと考えられます。
ただし神代を設定し、氏族や地域の伝承を取り込んだこと、また系図をつけたのは、『日本書紀』独自のものでした。神話は天皇家の成り立ちを記すとともに、氏族のアイデンティティを示す役割を担っており、当時の人々の“いま”につながる重要な歴史の一部だったのです。
天皇ごとのまとまりは「神武紀」「仁徳紀」のように、「紀」と呼び習わされています。その冒頭には、天皇の実名や宮のあった場所、在位年数、后妃、陵墓の場所など「即位前期」と呼ばれる基本事項が置かれ、つづいて出来事が起った順に記されます。
文章はすべて漢語漢文で、いまの私たちには難解ですが、当時の人だってスラスラ読めたわけではありません。完成の翌年には「日本記講」という官僚向けの講義の場が設けられており、これは中国語で書かれた『日本書紀』を和語でどのように読むかをレクチャーしたものと考えられます。
Q:誰がいつ何のために作らせたのでしょう?
編纂の直接のスタートは、『日本書紀』にある天武天皇10年(681)の詔に遡る、と私は素直に考えています。「天武天皇は川嶋皇子、忍壁皇子以下臣下らを大極殿に集め、帝紀と上古の諸事を記録させた。大嶋・子首がみずから筆を執って記録した」というくだりですね。
この年、天武は歴史書とともに律令の整備も命じています。律令と歴史書、中国ではこの2つを備えてはじめて独立した国家と見なされていましたから、それらを作るということは、日本が自立した国家であるという表明だったのでしょう。完成後、遣唐使が唐に持って行ったという人もいますが、確証はありません。
その後、完成までに39年もの歳月を要しているのは、最初の公式な歴史書を作るという作業がいかに大変だったかを物語っています。持統天皇5年(691)に、18の古代氏族に「墓紀」(家の歴史や記録)を提出させたとあるように、さまざまなところから資料を集め、それら先行する歴史記述や古い伝承などを編纂メンバーが検討するという作業を経たと考えられます。
『日本書紀』は、著者を誰か特定の人物に帰するような性格の書物ではありません。これは『日本書紀』を理解する上で重要なことだと思います。
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『ラノベ日本書記(芸術新潮2月号)』1
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