近江八幡③☆朝鮮通信使
近江八幡に朝鮮人街道の碑があるがこの道は、江戸時代将軍のみが通行できる道とされていた。野洲から彦根まで、中山道を離れ、琵琶湖沿いの道で、織田信長が整備したと。徳川家康も凱旋に使った道で、1607年朝鮮通信使を迎えたとき他の道がまだ整備されていないこともあり、特別にこのルートを取ったのが後にもっ使われたと。それで、近江八幡の商家が休憩所として使われたと。旧伴家も、何度も休憩所として朝鮮通信使を迎えたと。当時、通信使の副使は「よく整備され左右に松が植えられ、千里の道が松の青さに溶けた」と評したと。たぶん、朝鮮通信使は江戸時代を通じて、12回やってきたと。特に前半は、秀吉の侵略で悪化した関係修復もあり幕府は最大限のもてなしで迎えたと。人々にとっては、非常に珍しい異国の行列で祭どころの騒ぎでは無かったそうですが、藩によっては見物を禁止したところもあったとか。。。当時の互師が忠実に再現して作った人形だと。こちらは、着物からお腹が出ており^^七福神の布袋をイメージしたのではないかということです。三使 正使 副使 従事官 に出された食事=五五三膳まず熨斗(のし)が出されたと。干したアワビで、祝い事に出したと。今も熨斗をつけるとか、この熨斗だと。一の膳二の膳三の膳