我々が一人でいる時というのは、
我々の一生のうちで
極めて重要な役割を果たすものなのである。
或(あ)る種の力は、
我々が一人でいる時だけにしか
湧いてこないものであって、
芸術家は創造するために、
文筆家は考えを練るために、
音楽家は作曲するために、
そして聖者は祈るために
一人にならなければならない
リンドバーグ夫人「海からの贈り物」(新潮文庫)より
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結婚していた頃は、一人で何かをする時間を持つことがなかなかできなかった。それは恐らく、家族(夫婦)というひとつの共同体に所属するようになってからの大きな変化だと思う。
一人じゃない、言い換えればそれは、常に誰かといる、あるいは誰かと接している状態である。
結婚する以前の独身時代は、一人で過ごす時間があまりにも多く、孤独で退屈な時間に辟易(へきえき)してしまうことが少なからずあった。
公園で長編小説を読んだり、映画やコンサートに出かけたり、孤独な時間には何らかの感動を求めて、自分の部屋をよく開けたままにしていたものである。
旅にあれば、一人で移動を繰り返しはしているものの、行く先々でいろんな出会いが待ってくれていた。人と接すること、誰かといることに常に飢えていた自分がそこにはいた。
コミュニケーションのない孤独な時間は、集団社会で人にもまれて暮らしていく中でこそ価値が生じてくるもので、他人とのコミュニケーションのとり方を十分に身につけることなく孤独を経験する(せざるを得ない)のは、隔離された孤独であり、社会から自分を締め出してしまうことで自分自身の中にしか逃げ場のない状態、いわゆる「引きこもり」とも呼ばれる逃避行動に結びつくことさえありうる。
ここでリンドバーグ夫人が述べているのはもちろん後者の方ではなく、「健全な孤独」である。「森の生活」のH.D.ソーローのように、一人の自分と対峙(たいじ)することで本来の自分を見つめなおし、必要に迫られれば今後の自分の軌道を修正する機会にもなるかも知れない。
そして、一人になる最大の理由は、与えられた自由とそこから生まれる様々な発想をこの人生において活用するということだ。
一人でいられるとは何と素敵なことなのか。自分自身を見失わないために、自分自身をより高めていくためにも、わずかではあっても与えられた一人の時間を大切にしなければならないと思う。
(Photo: 和歌山県潮岬 1982年12月)