レイク・タウポ(ニュージーランド) 1994年12月
1歩足を踏み出せばもうそこには何もない。
分かり切ったことだったが、いざ自分の足元に目をやればその事実を受け入れないわけにはいかなかった。
両足首をナイロンストラップで堅く絞められたままでもちろん自由はきかない。そのストラップに結わえられているのは太さ7センチほどのコードロープ、かなり長さがあり、大蛇のようにとぐろを巻き、僕の足元に置かれている。
今僕がいるのは、ニュージーランド北島、タウポ湖に流れ注ぐワイカト川の水面から約47mの高さにある橋桁の上。
15階建てのビルの高さに等しいと言うから、何もない状態で飛び降りれば恐らく命の保証はあるまい。
オフィスでまずチェックインしたら体重計に乗るように言われた。
なぜ体重なんか?と思ったが、マネジャーの説明では、体重を元にゴムの伸縮率を算出し、最適のロープの長さを設定するのだそうだ。
希望に応じて、上半身だけ、あるいは全身を渓流の中にダイヴさせることもできる。僕は水面ぎりぎりのコースをリクエストしておいた。
平日とはいえ観光客がたくさん来ていて順番待ちの行列ができている。それ以外にも観光バスでやって来た団体が橋のそばでカメラを向けたりしながら群れを成していた。
「見るのはいいけど、実際自分がジャンプするのは…」という人が大半を占める。
「何を好き好んでこんな酔狂なことを…」とでも言いたいのか、カメラのシャッターを2、3回押し、カメラをバッグに仕舞うと満足顔でどこかへ行ってしまう人もいる。人間なんて勝手なものなのだ。
自分の名前がコールされて、床に腰を下ろし足首にストラップを固定するベルトを締められる。その間、いくつか注意事項があった。
「3-2-1でジャンプするんだよ」と言われてから初めて自分がこれから実際に跳ぶんだということを悟った。
いつになくナーヴァスになっている自分自身、クルーの人たちのジョークにも笑えないほど僕の表情は堅くなっていたようだ。
だが、そんなことも束の間。そして、いよいよお立ち台にセッティング完了、後はカウントダウンを待つばかり。
「3(three)…2(two)…1(one)…バンジー(BUNGY)!」
真下を見ることなく目を閉じたまま、僕は自然に体を前に倒していった。その時何が見えたのだろう?
「!!!!!」
無意識の内に僕は絶叫していた。地球の中心へと僕の体が凄まじい勢いで吸いつけられていく。
重力加速度がその勢いで僕を圧倒する。
高校時代に物理の授業で習った重力加速度の公式を思い出そうとしたが、そんなものすっかり記憶の片隅から消えてしまっていた。
あまりに強烈な風圧で僕の顔は押し潰されそうであった。
落下する勢いはさらに増し、周りの景色は視界から消え、ブラックホールに迷い込んだのではないかとさえ思った。
ワイカト川の水面がどんどん迫ってくる。渓流の鮮明な深緑色がはっきりと目に見える。水面にあと10センチばかりの所で一瞬僕の動きが止まった、と同時に今度は僕の体が激しい勢いで宙高くへと舞い上がっていく。伸び切ったバンジーコードの張力によって、再び上空へと引き戻されるのだ。
その瞬間だけ僕は無重力状態を体験した。ロケットが打ち上げられるのはたぶんこんな感覚なのだろう。僕はほんの少しの間ロケットの気持ちになって周りを見ていた。
リバウンドは落下するよりも短い時間だった。上まで上り切ると再び落下を繰り返す。
そのリバウンドが5回。動から静へ…。
宇宙の原理はきっとこのバンジーコードの中にも生きているのだ。
すぐさまゴムボートがやってきて長い棹を差し出してくれた。僕はすぐさまそれをキャッチし、ボートの上に降ろされる。そして、スタッフは慣れた手つきで、きつく締められた僕の足のコードを外してくれた。
飛び降りてから、時間にしてわずか3分あまり。
ゴムボートから今飛び降りた橋桁を眺めれば、そこはやはり異次元空間だった。
足を一歩踏み出すまでのあの緊迫感、いつもとはどこか違う特殊な空気がそこには流れ、確かに僕はその空気の細かな粒子を全身で感じ取っていた。
あの空気は一体何だったのか?
大胆さや勇気などとは全く関係のない世界で、バンジージャンプの余韻を楽しんでいる僕がそこにはいた。
「勇気の証明書」:バンジージャンプに成功すればもれなくもらえる
*ニュージーランド一周~オーストラリア横断自転車旅行