【日々是前進也】
「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行き交(か)ふ年月もまた旅人なり…」
46歳、まさに自分の年齢で「奥の細道」の旅へと出発した松尾芭蕉がとらえた時間に対する観念はまさに旅人のそれであった。
時間というものがいったいどこからやってきてどこへ行くのかは分からないけれど、それはあたかも彷徨えるジプシーのごとく、永遠にとどまるところを知らない。
古き良き時代を回顧することはできても、我々は時間そのものを止めたり、先に進めたりすることはできないのだ。
春風が勢いよく吹き抜けていくかのように、時間という、過ぎ去っていくものの後ろ姿さえ捕らえることができないことを我々は哀しむべきなのか…。
走ることを哲学だと主張するつもりは毛頭ないが、走ることに精神的な浄化作用を求めているのは恐らく自分だけではあるまい。腕を振り、脚を使って一歩一歩前進する。ただそれだけの原始的な行為が人にもたらす影響は計り知れない。
ハイハイをしていた赤ん坊が二本足で立ち上がり歩行することが可能になった時、彼(もしくは彼女)の世界観はそれまでとは全く違った風に見えることだろう。そして歩きから走りにチェンジすることを覚え、今までになかったスピード感を体験する。
二本の脚が一本の道をたどり、時を刻み続ける時計の秒針のように、着実に少しずつ、僕たちは前進すればいい。日々の人生を確実に自分のものにするために必要なのは、ただそれだけなのだと信じている。
(Photo: the Way to Mt. Cook, New Zealand 1995)