【秋風に誘われ一人旅の空】
10月、季節は違(たが)えることなく確実に秋へと向かっている。
あれだけ暑くてたまらなかった夏は一体どこへ行ってしまったのだろう。
心地よいペースで我が愛車ルイガノ、VIENTO2号を駆りながら、
朝の乾いた空気を胸一杯に吸い込んでみる。
どこからともなく漂ってくるのはキンモクセイの甘い薫りだった。
頬(ほお)を撫(な)でるほんのり冷たい風の吹く方向に向かって僕は走っている。
僕の心はいつしか旅の空を漂いながら、
あれらの道をたどっていた日々に向けて既にマインドトリップしていた。
季節は秋。
秋という季節はいつも、僕にしてみれば旅の終わりを告げる時期でもあった。
夏をイメージさせる全てのものは様々な旅の思い出に結びついているけれど、
旅の終わりが訪れる時、それらのものは現実としての重みを次第に失い始める。
あるものはすっかり忘却の波に飲み込まれ、
またあるものはわずかながらの手がかりを頼りに、
かろうじてその残像をひとつのイメージとして自分の内にとどめる。
かつて「現実」だったものが時間の経過とともに
「記憶」という形で保存されるに至るわけだ。
だが、人間の記憶ほどいい加減なものはない。
時間の前後関係や自分の身に起きたことの詳細などを思い返すうちに、
一体どれが正しくてどれが間違っているのか、
かなり曖昧(あいまい)なものになっていくだろう。
また、そのようなことに囚(とら)われること自体
馬鹿げていると思う時がきっとやってくるに違いない。
それが記憶というものの正体であり、記憶としての宿命だからだ。
記憶とは、まさに「現実」という海に浮かぶ流木のようなものなのだ。
吹く風の匂いにも、場所によって微妙な違いがあることを僕は経験から知った。
旅を続けながら、僕はずっと昔に感じたはずの匂いを探し求めてきた。
どこに行けばその匂いが感じられるのか、あるいはその匂い自体がどんなものだったのか、
今となっては、そういった記憶さえ
すっかり曖昧(あいまい)なものになってしまったけれど…。
旅というのは吹き抜けていく風のように気まぐれでとりとめのない行為であると思う。
囚(とら)われるものもなく、日々移り変わっていく中で、
こだわりのない生き方を求めることもできる。
今まで自分を束縛していたのは、誰でもない、
自分自身だったということに気づくまでずいぶんと時間がかかってしまったけれど、
自己を解放するのも結局は自分自身でしかない。
ありきたりで平凡な日常であればこそ、
自分自身がそれを変えていかなくてはならないんだろう、きっと。
枯葉舞う散歩道にふと現れたあの日の自分が今は見える。
その自分が、だんだん今の自分とは違ったものに見えてくるような気がする。
あるいは、それはただの幻だったのか…。
旅にあれば故郷を思い、故郷にあれば旅の空を思う…。
旅人の見る夢は今も何ひとつ変わっていない。
A memory is something like drift wood floating in the ocean…
Photo: "Driftwood and a Man with a Dog" Pacific Coast, California (June 1991) by Kay