「今週の親力診断テスト」が、
これもまた興味深い内容でした。
http://education.mag2.com/oya/bn76.html
昔、確か戦時中に「隣組(となりぐみ)」という制度があったと思います。
「♪とんとんとんからりんと となりぐみ~」という、あれです。
「連帯責任」という言葉を聞くと、まずあれを連想してしまいます。(--;)
通常3~5人くらいの規模、または3~5グループという規模で、
お互いに注意しあい、一人が失敗したり迷惑をかけるようなことをすれば、
連帯責任でみんなが罰を受けたり、しかられるというものです。
教育の現場では、たとえばクラス内の「班」というものの使い方で、
同じようなことができうるかもしれません。
少人数規模の集団内において、
みんなで注意しあい、みんなでよくなっていこうというのは、
一見よさそうですが・・・
皆さんはどうお考えでしょうか。
上のリンク先での「親力診断テスト」の例では、
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兄弟3人のうち誰か宿題終わっていないときは、
終わるまで3人とも夕飯食べられない。
お互いよく面倒見るようになったし、お互いに協力するようになった。
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というものが載っています。
罰を受けるというよりは、
「みんながそろうまで待ちましょう」
と言っているような気もします。
さて、これは是か非か?
いろいろお考えはあるでしょうが、
親野先生の回答では、以下のようなことが書かれていました。
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・連帯責任には必ず罰が伴い、足を引っ張る者にいい思いを持てなくなる。
・内面では「この子のせいで・・・」という気持ちを持ってしまう。
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その後の記述が大変厳しく心に響きました。
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・連帯責任の安易な利用は、大人の責任を放棄すること
大人がやるべきことをやらずに、
「できないと他の子に迷惑がかかるからやらなきゃ」とか
「この子ができないと自分もご飯食べられないからやらせなきゃ」
などという気持ちを利用しているのです。
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このことでいろいろと自分の教師としての指導を思い出しました。
ついこのあいだ、秋の遠足で受け持ちの子が歩くのが遅いので、
クラス全体に「来るまで待って」と言ったことがあります。
また、特に遠足などの集団行動のときに、
「みんながそろうまで待ちます。全員そろったら座ります」
といった指示を出すことがあります。
そのことを思い出しました。
さぼっているのではなくがんばっているのだけれど遅くなってしまう子を
待つのは、とても正当なことだとは思いますが・・・
もしかすると、子どもたちみんなの心情として待つのではなく、
ただ教師の指示として待たせているというところに、
教師の傲慢さがあったかもしれません。
「大人の責任をはたしているか」
というところを、わが身を振り返りながらあらためて思った次第です。
※余談※
遠足の件ですが、努力しても遅れてしまう子を待たないのは
その子が「みんなからどうでもいいと思われているんだ・・・」と
ショックを受ける可能性があるので、避けたいところです。
そこで、今思うのは、「待て」というのを短い指示ではなく、
「先生は待ちたいと思う、君たちはどう思うか」といったような聞き方で、
集団に判断をゆだねたり、考えさせたりするほうが、よりよかったかなと思います。
時間がなくてパッパッと指示を出して行動させたいときには
なかなかそういう余裕がないのですが・・・
でも、そもそもそうやって 急いでさせる、教師の指示でその通り動かす
ということに、さほど重要性はないのかもしれませんね。
(注)「そろうまで待つ」ということについては、いろいろな意図が存在するので、
単純に「いつもどんなときもいけない」とは言い切れないことを補足しておきます。
みなさんからのご意見、お待ちしています。(^_^)♪