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カテゴリ:報徳
後藤 静香 日めくり 12日
今のままで お前は たしかに生まれた 何のために生まれたのか お前は たしかに生きている 何をすればよいのか お前は たしかに死ぬ 今のままで 死んでもよいのか 後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。 蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。 格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。 代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。 「現代語訳 安居院義道」p.26 現代語版の『安居院義道』 安居院義道の風景 その1 安居院はどう読むの? 安居院をどう読むかが、まず問題である。安居院の読み方について「あごいん」「あごい」「あぐい」「あんきょいん」とさまざまに読まれている。『報徳に生きた人々』八木繁樹著5頁では「あごいん」とし、10~13頁でその読み方について研究考察される。 「その姓『安居院』はなんと読むのか。鷲山恭平翁著『報徳開拓者 安居院義道』では『あごゐん』とルビをしている。・・・遠州地方では通常『あごい』で通っており、なまって『あぐい』という人もあり、少年時代からこれを耳にしている私は、疑うこともなく『あごい』が正しいと思っていた。」とある。 ところが「正しい呼び方は何か」を聞かれたことから、静岡市内に住む庄七の玄孫といわれる安居院勝一氏を訪問して調査した。安居院姓の起りは奈良の高松塚付近で、藤原鎌足の勅願寺安居院(あごいん)で、安居院家の先祖はその執事となって、安居院の姓を賜った。 後に神奈川県秦野市と中郡土沢村上吉沢(現平塚市)に定住した。勝一氏は父から「庄七翁はこの家の中興の祖であって、当時、大住郡曽屋村十日市場にあった同家に、同郡大山村の密正院藤原家から入婿し、磯屋と称する商家を継いだ」と教えられた。ところが勝一氏の調査によると、庄七翁の入婿先は秦野の安居院家であることが判明したという。勝一氏によれば、この姓の読み方は「正しくは あごいん です。しかし、それがなまって あぐい という人も多く、私たちも あぐい といいます。」 大藤修著『二宮尊徳』287頁では、「安居院(あぐい(あごいん))庄七(しょうしち)」(義道(よしみち))とルビがふられている。 秦野市本町地区に「安居院庄七翁頌徳碑」がある。この説明には「あぐい」とある。「本町小学校玄関の西側に、高さ3m程の碑がある。この碑は、安居院(あぐい)庄七の功績をたたえ、1919に建てられたものである。庄七は1789年に蓑毛の神成(しんじょう)家の次男として生まれ、曽屋村十日市場の雑穀荒物屋をしていた安居院家の養子となった。1842年54歳の時に、下野国桜町陣屋に居た二宮尊徳を訪ねた。面会はできなかったが、仕法等を学んだ。その後、尊徳の教えを伝え広めるために大阪まで旅をし、59歳の時、浜松地方を中心に報徳社を創立した。1863年75歳の生涯を閉じた。墓は、浜松市の浄土宗・玄忠寺にあり、秦野市元町の妙相寺が安居院家の菩提寺である。」 💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.12 00:13:46
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