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2024.06.14
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カテゴリ:報徳
後藤 静香 日めくり 14日


これがために
  たしかに生まれた
  必要だからだ
  たしかに生きている
  まだ用事があるからだ
  「われこれがために生まれたり」
  はっきりと
  そう言いうるものを
  つかんだか


後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。

蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。
格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。
代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。

「現代語訳 安居院義道」p.28-31

現代語版の『安居院義道』

二、安居院家を継いで商人となる
 先生は長じて同郡曾屋村(秦野市曽屋)十日市場の安居院(あごいん)家に婿入りしてその家を継いだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。その妻を「ヒサ」といい、すでに先夫藤吉との間に数人の子があったと伝えられるから、相当の年配になってからのように推定されるが、この前後の経歴は全く不明である。
これより一商人として家業に従事したことと思われるが、元来慧敏(けいびん=知恵があり気が利く)といわれる多芸の才物であったから、壮年時代は特に鋭気満々として、空しく一草蘆(そうろ:草ぶきの庵)に起き伏しすることをいさぎよいとしないで、常に一攫(いっかく)千金を夢見る山気があった。
そのためその考えから出発し、たどった道は米相場であった。これは修験の家に生まれて陰陽説の信奉、気候風土の物産や物価に影響する等の天文記、安居院先生の没後に遺物として残された玉手箱(著作物)に結びついて考えられる。
しかしこの手筋は一般に金儲け猛者(もさ)連の着眼する常道で、新発見でも天外からの福音でもない。ちょうど賭博(とばく)をする者が金にのみ眼がくらんで、自分だけは当たることだけ思い込んで、外れたら損をすることの分別が見忘れているのと同じである。さすがの先生といえども、また一直線に突進して浮き身をやつして、一進一退、虚々実々の場面にしのぎを削った。時には面白おかしく鼻高々の面もあったことと想われるけれども、いつまでもそうは甘くはない。遂には一敗地にまみれて大きな傷を受ける破目に落としいれられた。
そして「しまった」と気づいた時は、自分の金銭を失くしたのではなく、養家の財産をすっかりなくしてしまった。しかし申し訳がないからと腹を切る気にもなれず、運が悪いからだと自己弁護に都合のいいふうに解釈し、もし金があったら取り返せそうな気がする。誰か資本を貸してくれる人はないか、最後の一戦に運命を賭けてみたいと念じていた。
そんな時、天保十一年(一八四〇)になって報徳二宮先生は、小田原領内曽比・竹松の二村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の立て直しにあずかる。安居院先生は仕法事業の性質は知らない。また深く究めるほどの興味は起こらない、そのうちに利息の安い金を貧乏人に貸す一事だけは天来の福音と感じて受け取った。しかしまた他面には今のようなセチ辛い世の中に利息が安いことなどあるはずがない。それを貸すということがわからない。事によると、二宮という者は大山師で、一芝居うつのではないかと疑った。しかし自分は二宮に用があるのではない。金を借りることが目的だ。よし一つ頼もうと決心した。その時二宮先生は小田原領におられない。野州(栃木県)桜町陣屋にあると聞いて、はるばると同地に向かった。すなわち陣屋日記の条に
一、 相州十日町市場磯屋庄七と申す者、田蔵をたよって罷り越し候事
と記載されている。また別日記の二宮先生の子息尊行氏二十二歳の時の筆記にも、田蔵の上に中沼村を加え、その末文に「始めて来る」と付け加えられている。
 安居院先生は陣屋に行き、早速二宮先生に面会を求めたが、公務多忙のためと即座に拒絶されてしまった。
 それは陣屋としては誠に無理もないことで、その当時、二宮先生は老中水野忠邦より、江戸表へ出府するように命令されていた。続いて利根川分水路印旛沼掘割工事の検分を仰せつけられ、後には幕府の役人に取り立てられ、御普請役格(ごふしんやくかく:土木工事係)を拝命するというを拝命するという、一世一代の光栄の出世時代に遭遇して内外実に大変多忙な時であって、それらは七月二十六日の陣屋日記に照らして逐一次第がうかがわれるからである。
 このような場合であったから、先生に対して面談の余裕はない。しかし郷土の方から尋ねて来た情義で門前払いも忍びない。「まあ当分、風呂番でもさせておけ」といわれ、それから雑用をしながら面会の機会を待って、暫く陣屋に厄介になっていた。後に二宮先生はかいま見られて「彼は風呂の焚き方を心得ている」と言われたと伝えられている逸話がある。



💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。

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最終更新日  2024.06.14 00:25:10



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