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2024.06.29
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カテゴリ:イマジン
沢木興道
Japanese Zen monk, Kodo SAWAKI 澤木興道老師 (1880-1965) - He is known for his ...

人生というものが、めでたいものか悲しいものか、人生食うために坐禅するのか、坐禅するために食うのか食うために念仏申すのか、念仏のために食うのか、ここがわからない。肥前の国の七十になるある爺さんが、「貴様食うために働くのか、働くために食うのか」と私から言われて、こういう恐ろしいことは、かつて無かったと言った。

食うためにはたらくのか、坐禅するために食うのか、食うために坐禅するのか、ここの往復にどえらい違いがある。例えば食うために念仏申す念仏業の人がある。私の知っている河内の国のある坊さんは「和尚さんおはようございます」と人がやってくると、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言って通る。遠いほうへ行ってしまうと鼻歌を歌ってゆく。職業意識が多分に働いている。これは食うために念仏申すのである。そんなことを法然上人(※浄土宗の開祖)は教えていない。念仏申すために今日は生きておらなければならん、と教えられている。我々は坐禅のために、祖師道のために、本当に生きた生き方をするために、食わなければならんし、学問もしなければならんし、いろいろの生活をしなければならん。

私はいつも「棒を一本引いて、これで仏さまと私と引っ張り合いをしている」という。どちらが強いか。仏を引き入れて、こっちの餌としようとするのが凡夫(※仏ではない人間、普通の人)澤木である。どちらへ引っ張るのが本当であるかというのが仏法の根本問題である。大抵の場合は、澤木そのものが偉くなろうと思うことが多いのだ。澤木が偉くなろうとするのだ。澤木の内容を豊富にして、人間の中で押し合いをして、押しも押されぬ人間になろうと思う。こういう気持ちで学問をしよう、修行をしよう、戒法を保とう、嫁さんも持たず精進物(※精進料理、肉やネギを使わない。)で澤木の内容を豊富にして、押しも押されもせぬ凡夫を作ろうと思うのだから、とりもなおさず妄想である。妄想であるから、どれだけ偉くなっても、利口になっても、たとえ一切経をそらで読んでもつまらんことだ。

ところが、その反対に澤木が仏法からひっぱられる。こいつは坐禅も嫌だ仏法も嫌いだと言っても、どうしても仏法のほうへ引っ張られる。ちょうど牛が鼻をひっぱられるように仏法からぐんぐん引っ張られてゆくのが、善い因縁とかありがたい因縁とかいうのである。道元禅師の『正法眼蔵』の「生死(しょうじ)の巻」という書物に「ただ、わが身をも心をも、はなち忘れて仏の家になげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆく時、力をも入れず心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」とおっしゃられている。これがすなわち仏道の根本問題である。澤木がひっぱるか、仏がひっぱるか、どちらがひっぱっているかという問題である。ただ頭を剃ったから仏道に入ったというわけではないし、精進物で飯を食ったから仏道というわけではない。嫁さんを持たぬから仏道というわけではない。それは芝居で念仏申すのと同じだ。「おのれ覚悟はよいか」「南無阿弥陀仏」これは宗教とは何の関係もない。

「坐禅は蓋しさう云ふ風なもので、人から何の為になるかと問はれたら何にもならんと言はなければならん。唯私の言ふやうに正身端坐して背骨を伸ばし、鼻で呼吸して口をふたして眼を開いて、ウンと坐る、それを詩に作れば斯う云ふ気持ちである。要するに坐禅は自己に親しむものであり、自分になる法である。そして一切経は坐禅を文学に引伸ばしたものであります。

「然るに「坐禅すれば何になるのか」と直ぐ尋ねる者がある。私は「坐禅しても何にもならぬ」と答へてやる。そうすると、それつきり坐禅に来なくなる手合があるのですが、これは坐禅の対象を誤つてゐるのである。」

坐禅が成仏である。だから此処で坐禅して居ると、其の儘それが成仏である。偉いものじゃと斯う思ふ。」

「さうすると悟とは、斯ういふ悟、ああいふ悟といふ理念ではなく、修行そのものである。所がそれでは何か物足りぬ。修行と云ふことが、何か悟といふ舞台に上る花道のやうな気がする。さうすると、悟が欲しい為に足の痛くなる修行もしなければならぬ、勲章が欲しい為に戦争といふ恐い目にも遭はねばならぬ、といふやうな事になるのです。」

「本当に修行そのものが悟そのものである形そのものが精神そのものである態度そのものが道そのものである。」

「元来大地に衆生なし、我と一切衆生と草木国土悉皆成仏、天地一枚、たつた一つの坐禅があるばかりじゃ。その外には何もない。是れが坐禅である。」

http://kyoto-morita.org/wp/new-blog/page/10/

わが宗門の叢林生活、僧堂生活こそ、現代の学校教育に大いに取り入れらるべき、すぐれてよいものをもっていると思います。叢林には、配役ということがあります。この配役の制度がよく行なわれるときにのみ、はじめて共同生活というものは理想的に営めるのです。今度の講習会にしても、典坐をやる人などは数多い人の食事をつくらなければならないのだから、お袈裟の講習に出席しているとはいいながら、7日間1度も法益を聞かずに、大衆のため次の食事の用意をしなくてはならない。しかもその人たちは私のお膳でもさがってきて、お膳の皿などがきれいになっているのを見て『まあ、よく召しあがってくだされた』と言って、それで満足するくらいなものであります。広い社会で、みんながみんな花形になれるわけはない。――

獅子舞の太鼓たたかず笛吹かず、後ろ足となる人もあるなり

だれか縁の下の力持ちにならなければ、社会は成り立たぬわけであります。配役にはもちろん、花形の役もあれば、縁の下の力持ちの役もある。元来、配役に高下のあるべきものではない。ただ、これを尽くす人の態度にあるのであります。――

後ろ足となっても、不平も言わず、文句も言わず、その後ろ足に成り切って、その後ろ足を十全に果たす、そのときに人間の深い悦びが自覚されるのであります。この自覚された人間の深い悦びというのは、表立って多くのものを支配したり、所有したりする誇らしい喜びではありません。つまり、外目にはどんなつまらぬことにせよ、力一ぱい働くところに本当の浄(きよ)らかな悦びがあるのであります。この浄らかな悦びには敵するものなく、競争もなく、永遠に失望することもありません。これほど偉大な悦びは、またとあるまいと思います。こんなところに、本当の実物の仏法、正味の仏法があるのであります。――

仏法僧の三宝と言いまして、僧宝が1つかけてはならないことは言うまでもないことであります。僧宝は僧伽(そうか)と言うことで、理想的な共同生活のことであります。この共同生活は仏法の具体的な活動でありまして、この共同生活を円成させるもの以上に淨らかな悦びはほかにはありません。この浄らかな競争のない悦びのなかには、自分の権利だとか、何だとかいう、とかく生活をぎこちなくするものは存在しないのでありましょう」


最上のなかの最上なる仏法は、いくら修行しても全く無反応の坐禅のことである。即ちこの無反応の坐禅が全てであるから当然「参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」と言われるのである。無反応な坐禅をすることが全てであるから参見知識のはじめより、ぼつぼつとメートルを上げて行くというものではないんじゃ。ただ何んともない坐禅をすることが全部で、ほかには何もない。これを一超直入如来地というのである。つまりこれが只管打坐である。(中略)
それがここへ、「ただし打坐して身心脱落することをえよ」とでているのである。この「ただし」ということは「ただ」ということで、ただ何のためでもなく坐禅することである。身心脱落というたら、普通には何やらしらんが、色気も食い気も桶の底が抜けたようにぼさっと何もなしになるものじゃと思うけれども、とんでもない、そんなことじゃない。凡夫というものは五欲六塵にうろたえておる、つまりいうたら名誉やとか、好きやとか、出世やとか、うまいものやとか、などで大騒ぎしておる。それで結局のところ何になったかと言うと何にもなってはいない。こうして何にもなっていないのに人間というやつは虚栄心やら利害得失のために一生涯うろたえておる。そしていつも何ぞどこぞにないかと思って、盗っとネコのようにあちこちうろたえておる。うろたえうろたえた挙句の果てに、とうとう結局のところ、何にもならなかったというところまで行けば、もうそれ以上行くところがない。こうして最後に行き着いたのがこの身心脱落です。(『澤木興道全集』第十八巻、大法輪閣、1968年)





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最終更新日  2024.06.29 02:13:06



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