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カテゴリ:映画
「蠍座思い出の一本、外国映画の部」として取り上げられたのはダルデンヌ兄弟監督の「ロゼッタ」(1999年)。カンヌ映画祭パルムドールと主演女優賞をダブル受賞した作品。 結論から書くと、この映画は映画に限らずあらゆるジャンルに比類のない壮絶な傑作である。これを超える作品はこの映画の監督たちにさえ不可能だろう。 この映画を見て思ったのは、自分が文化的糖尿病患者になっているということ。というか、ほとんどすべての芸術愛好家はしょせん文化的糖尿病患者となかば軽蔑していた。自分(だけ)はそうではないと思っていた、その自信が打ち砕かれた93分であり、甘さのみじんもない壮絶なラストに言葉を失った。 冒頭、いきなり怒った少女が突進してくる。突然の解雇を言い渡されたロゼッタ(エミリー・ドゥケンヌ)は上役に食ってかかり、ガードマンに排除されつつも強烈に抵抗する。手持ちのカメラによる至近距離のショット。ドキュメンタリー映画よりもドキュメンタリー的な迫真性を感じさせるだけでなく、「定職」に強烈に執着する少女のただならない境遇を印象づける。 これほど単刀直入かつ瑞々しく開始される映画をほかに知らない。薄幸な少女への同情を誘う感傷映画などとは無縁の映画であることが、この鮮烈な冒頭シーンからすでに明らかだ。 16~17歳の少女という設定だろうか。ロゼッタはアルコール&セックス中毒の母親とトレーラーハウスに住んでいる。学校には行っていず、ぎりぎりの貧困の中にいる。そんな彼女は「定職」につくことによってのみ「普通の生活」を手に入れられると信じているのか、なりふりかまわず職探しをしていく。彼女に優しく接してくれるワッフルスタンドの青年の親切さえ踏みにじって職を得る。 ダメな母親を背負ってただひとり生きていこうという少女のエゴイズムを誰が批判できるだろうか。 そうまでして得た職を彼女はあっさりと投げ捨てる。ラスト部分のテンポ、そして切れ味はすごい。「最後の食事」に卵をゆで、額で割って食べる。このあたりで観客は彼女が何をしようとしているのかを察することになるが、「貧困」ゆえに死ぬことさえできないラストに唖然とさせられる。 ロゼッタがどんなに非情で冷淡であっても、生きるためである限りその姿はひたすら美しい。彼女の孤独な戦いは、逆に家族や社会や組織やときに国家にすら守られていないと安心できないわれわれの弱さや甘さを弾劾しているかのようにさえ感じられてくる。 いくつか印象的なシーンがある。ワッフルスタンドの青年リケの部屋で彼と不器用なダンスを踊るシーン、池で溺れかけた彼を助けることをちゅうちょするシーン、ベッドの中で「わたしはロゼッタ、あなたはロゼッタ」ともうひとりの自分に語りかけるシーン、最後の最後で嗚咽するシーンである。 ダンスのシーンでは、唐突に部屋を飛び出す。腹痛のせいのように描かれているが、楽しさや癒しや慰めがあると厳しい生活を戦いぬけなくなるからだ。ほんとうに厳しい生活を送っている人間はささやかな楽しみや幸福さえ拒絶するものであり、ダルデンヌ兄弟の冷徹な人間観察が光っている。 このダンスと続く「もうひとりの自分」との対話のシーンに感動できない人間は一般的な幸福観に洗脳されている。 他のシーンも安易な解釈をゆるさない多義性に満ちているが、ラストで見せる彼女の涙の受け取り方は千差万別であり、そこに「希望」を見いだす人間は多いだろう。 しかしそれは間違っている。 決して笑わない少女が見せた涙。それはガス切れで自殺の仕切り直しのために重たいボンベを運ばなければならなくなったロゼッタの怒りと絶望の結晶であり、哀しみではなく屈辱の涙だ。惨めさと屈辱の極北でついに彼女は泣く。 嗚咽する彼女の中には神がいる。孤独な戦いを戦いぬいた者だけに宿る神がいる。 これほどの惨めさ、屈辱がかつて映画で描かれたことはなかった。そして彼女の涙は、いや泣いている彼女は、われわれの同情のまなざしさえ拒絶している 。その潔さは崇高なまでに美しいが、同情のまなざしを拒否することに成功したその一点でこの映画は映画史を画する作品になった。 しかしそんなことはどうでもいい。 半世紀以上生きてきて、スクリーンの中でだが、やっと理想の女性と出会うことができた。 ロゼッタ、ぼくと結婚してくれ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
December 25, 2014 09:54:31 AM
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