語彙 1・5
語彙力の豊かなヒトは頭がよく、人物像として、より望ましいと示唆されているのですが…。記事 なぜ頭のいい人は語彙力が豊かなのか 参照確かに、文章は”語”の並びで表現されますので、その語を多彩に知悉しているヒトほど、編み出される文章は、美しかったり、めずらしかったり、得心させられたりしがちです。まあ、プラスの評価ということになりましょう。上の記事では、そうした文章をあやつるヒトを”頭がいい”と積極的に肯定しています。そこでは、見える世界が違うというのですが…。ウゥ~ん、本当にそうなんでしょうか? 率直に頷けない気分がせりあがってきます。まず最初に確認しておきたい点は、”文章”をつくる”意味”あるいは”目的”が問われなければならないということです。"読み手"をムシないしは想定しない文はありえないということです。それは、何らかの状態や意思をつたえようとする役割をもっているのですから…。そうでありますから、文は、明瞭で的確な内容であることが第一でして、語彙は、それを補強するものでしかないということになります。端的に云えば、豊富な語彙を学習し修得していたとしましても、実際にそれを用いる範囲は自ずから限界があると云わねばなりません。脳裏に浮かんだイメージを文に表す必要があったとして、その受け手が、どのような受容力を持つヒトなのかによって、その語彙の使われる広さに違いが出てくるでしょう。学術的な繊細な概念を規定しようとする場合には、その豊かさが”命”となるはずです。しかしながら、ごく一般の読者を想定したときには、そのような表現は、分かりにくさが先に立ち、むしろジャマというか逆効果でしかないのです。”頭の良さ”とは、したがいまして、その語彙の場に応じた”用い方”にあるということになりまして、上の記事にありますような、語彙の豊かさではないのです。それにしましても、語彙が豊富であって不都合と云うことはありませんので、その豊かさに心をとめるという姿勢は大切でしょう。ちなみに、先にみた”見える世界”とは、語彙を駆使した状況の深堀ということになります。つまりは、”専門家”と云えるでしょう。本を読むことでしょうね。”語彙の豊かさ”を得るためには…。読書時に目にとまった文章や語をマークし書きとめるのもグーでしょう。