カテゴリ:カンボジア
一昨日,TVの2時間番組でカンボジアのことをやっていた。カンボジアと言えば,地雷で有名だ。また,残虐なポル・ポト政権でも有名である。
首都プノンペンには,もとポル・ポト政権の刑務所であったトゥール・スレン大量虐殺博物館がある。行かれた方も多いと思う。 じつは,以前にトゥール・スレン虐殺博物館をUPしたのだが,残虐な画像をUPするのはどうかと思い,控えめにした。しかし,現実に起こった悲劇なのだ。2度とくり返してはいけないという意味を込めて,そのままを伝えることが大事かと思い,今日は少々残虐な画像も入れて,'06年9/16の日記の増強版として紹介する。 骸骨や死体の画像があるので,こういうのが苦手な方は見ない方がいいかも知れない。 訪れたのは,'06年8月なので,2年半ぐらい前になる。ここには,'00年12月にも来館している。2回も訪れる必要があるわけではなかったのだが,また来てしまった。 以前もそうだったが,今回もセントラルマーケット付近から約40分かけて歩いてきた。前は,乾季なのに帰りに突然大雨が降ったが,今回は雨季だが雨に遭わなかった。おかしなものだ。 ここは,ポル・ポト政権時代に,政府に反対する人々を「反革命分子」として,ことごとく捕らえ,残忍な拷問をくり返したあげく処刑していったS21刑務所である。少しでも疑わしい者は全て収容され,家族も子どもを含めて全て収容され拷問・処刑され,カンボジアの人々には,たいへん恐れられていた。 訪れる観光客は多い。 もとは,高校の校舎らしい。約2万人の収容者のうち,生還したのはなんとたったの8人だ!当時の残忍な行為を伝えるために,博物館として整備され,公開されている。当時の独房,雑居房や,尋問室のベッドなどが,そのまま残されている。 入って左側の建物A棟は尋問室だ。部屋に残されたベッド。もちろん,手足の自由はない。部屋は,いくつもある。 実際の写真も飾ってある。遺体だろう。 この状態で尋問されるのだ。この刑務所は,クメール・ルージュが撤退したあとに初めて発見されたが,これらの写真は,残されていた遺体と思われる。 B棟には,収容された人々の膨大な量の写真などが展示してある。処刑は,ここから約12kmのキリング・フィールドでされたが,左側の写真の多くは息も絶え絶えか,拷問のときに既に息絶えているようにも見える。 これは,子どもたちの写真。家族もろとも捕らえられたので,この子たちは収容された家族なのかと思っていたが,番号札を下げていないので少年看守ということらしいが,どうなんだろう? 人々が着ていた服。 掘り出された遺骨。最初は,ここで処刑し裏手に埋められていたが,処刑場は,のちにキリング・フィールドに移された。セットとも言うべきキリング・フィールドへは,なぜかまだ行っていない。次回行った時はぜひ訪れたい。キリング・フィールドには,9000体近い遺骨が安置されている C棟には,金網が張り巡らされている。 独房だ。レンガの壁が倒れないように鉄鋼で支えてある。 これが,工事前の'00年の画像だ。ほぼ同じ場所だ。意識したわけでないが,同じ人間が撮ると,6年開いても同じところを撮るようだ。 部屋は,本当に狭い。排泄は,房内の箱でしていたらしい。 こちらは,木製である。どちらにしても,かなり狭い。畳1畳分ぐらいあるかないかだろうか。 拷問の道具だ。拷問の様子が描かれた絵も飾ってある。 水を使った拷問の道具が多く残されているが,電気ショックを使った拷問も多くされた。 拷問の様子を描いた絵。右の柱も,敷地内に残されている。 雑居房だ。 こんな感じで収容されていたらしい。これも,ひどい。 左は,処刑された人々の遺骨である。以前は,骸骨を使ってカンボジアのどくろ地図がつくってあったが,物議を醸し,現在は棚に置かれてまつられている。右は,そのときの写真をパネルにして飾ってある。 拡大した。これが,以前は実際に飾ってあった。 これは,'00年に実際に見て撮った,どくろ地図だ。触れる状態にあったと思う。 左の棚の拡大だ。 ポル・ポト軍によって,プノンペンの住民は全て農村部に移住させられ,一時はゴーストタウンと化してしまった。1979年にベトナム軍によって,プノンペンが解放されるまでは,秘密主義により,この収容所の存在が国外には全く知られていなかった。発見後すぐに,ベトナムによって全世界に公開されている。最初は政治宣伝用だったようだが,その後すぐに虐殺博物館として公開されている。現在も公開時とほぼ同じままで展示されている。 この博物館や,ポル・ポト派の残虐行為については,詳しく書かれたサイトが多いので,もっと知りたい方は探されたら,すぐに出てくると思う。 遠い昔のことではない。まだ30年ほど前のことだ。当時はプノンペン陥落などの様子がニュースなどでよく報道されていた。その頃小学生~中学生だった私は,たいへん恐ろしい町だと思っていた。いまだに,そのときのイメージは残っている。 こういうのが苦手な人には,この博物館は,かなりきついかも知れない。しかし,現実に行われた残忍な行為の事実は消えない。 前回UPした時は,控えめだったが,やはり多くの人々に“歴史の事実”を知ってもらう方が大事だと思った。 実際に行くと,画像で見るよりも遥かにインパクトが強い。機会があれば,ぜひ行ってほしい。 なお,'07年11/18の日記では,ポル・ポト派が最後まで抵抗したバッタンバンでの痕跡もUPしている。 1位などは狙ってません。でも,上位に近いと目につきやすいので,少しでも多くの人々に訪問していただけると思っています! ↓ はげみになります クリックをお願いします!! よろしくです!! ↓2つのブログランキングに参加しています。クリックするだけでOKです。よろしくです。ぜひぜひお願いします! 人気blogランキングへ 海外旅行とアジア旅行にエントリーしています。 ※ 画面が完全に出るまでに戻ると,カウントされないことがあります。 クリックで,本サイトへ! 本サイト お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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ボンケンコン高校ですね。日本で言うと高校がホロコーストの場所になったということです。教室を空洞レンガで独房のように区画して収容していたみたいですね。日常にユダヤの収容所があったようなものです。例えば、隣の小学校が刑務所になったといった具合。
(2009/02/11 04:56:33 PM)
こんにちは。いきなりカンボジアですね。
ここはまだ行ったことがないのですが、キリングフィールドと呼ばれる場所はシェムリアップにもありました。 このようなことが30年ほど前にまだ行われていたのですね。今後も世界のどこかで起こりうる可能性もないわけではありませんが‥ (2009/02/11 06:07:43 PM)
>さごしラーメンさん
高校の名前までは知りませんでした。さすがに,よくご存じですね! 隣の小学校が,いきなり刑務所なんかになったら本当にビックリです。しかも,無実の人々が無理矢理入れられるなら恐怖です! (2009/02/11 07:33:35 PM)
>ヨンミョン1029さん
最近は,シリーズもので連続してUPすることがありますが,もともとはあちこちの国々をUPしています。 ポル・ポト時代の残骸は,国土のあちこちにあります。本文の追加で,最後に北部のバッタンバンでの残骸について書いた日記へのリンクも貼っておきました。 (2009/02/11 07:44:22 PM)
うめきんさん
>>さごしラーメンさん > 高校の名前までは知りませんでした。さすがに,よくご存じですね! > 隣の小学校が,いきなり刑務所なんかになったら本当にビックリです。しかも,無実の人々が無理矢理入れられるなら恐怖です! ----- 結構、この区域は文教区で、教育熱心な華人が多くいますし、中華学校もあり目をつけられていたようです。福建省から移民してきたおじさんが私がフンセンの悪口を言うと口にチャックをするジェスチャーをしていましめてくれました。いまだに恐れています。彼は、カンボジア語があまりできないので漢字で筆談のほうが話が通じました。 (2009/02/11 09:49:26 PM)
>さごしラーメンさん
そうだったんですか。本当にお詳しいですね! 華人は,多くの国々にいますね。そのパワーは,すごいと思います。私は,てっきり華人(華僑)は,何代もに渡って異国に住んでいると,もう中国語は話せなくなってしまっていると思っていました。 (2009/02/11 11:40:39 PM)
人間は、ここまで残酷になれるという、いい見本です。
ここは永遠に残さなければなりません。 過ちを繰り返さないために。 そういえば、ポルポトを支援したのが某国でしたね。 ポルポトによるプノンペン占領を『解放』と報じたのは日本のマスコミであり、それを歓迎した中に、私がいました。 月並ですが、忸怩たる想いです。 (2009/02/12 09:47:34 PM)
>陳澤民さん
本当に残酷な話です。 ポル・ポト政権は秘密主義でしたが,某支援国だけには情報が入っていたようです。 世界では,残忍な話がまだまだ多くありますが,一刻も早く無くなってほしいという思いは,みんな同じでしょう。 (2009/02/15 01:30:41 AM) |
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