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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2024.07.06
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今回のNHK新プロジェクトXは、黒柳徹子さんの卒業された自由が丘にあったトモエ学園のお話です。

トモエ学園については、1981年に出版された窓ぎわのトットちゃんで紹介され、この本は世界で2500万部を売る大ベストセラーになったそうですが、今に至るまで読んでません。番組を観て、いろんな子供を受け入れて音楽を取り入れた教育で自由に伸び伸びと育て叱らず、子供の良いところを引き出す教育方法に興味を持ちました。自分は子供と接する機会はあまりないですが、子供は大人の言葉に自信を持ったり失ったりするそうで、そういう機会があれば慎重に言葉を選びたいと思いました。

今回の新プロジェクトXで一番面白かったです。

NHK新プロジェクトXOP

[ラジオ]「トットちゃんの小学校」黒柳徹子講演会






■参考リンク
2024.7.6NHK新プロジェクトX:「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」 注)トモエ学園と黒柳徹子さん
Wikipedia:トモエ学園
トモエ学園(トモエがくえん)は、かつて東京都目黒区自由ヶ丘(現在の自由が丘)に存在した私立幼稚園・小学校(旧制)。
リトミック教育を日本で初めて実践的に取り入れた学校として知られる。また同学園出身の黒柳徹子が著したベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』によって、一躍その名が全国に知れ渡った[1]。
沿革
1928年(昭和3年)- 手塚岸衛が「自由教育」を唱道し、東京府荏原郡碑衾町大字衾に、中学校(旧制)、小学校、幼稚園からなる自由ヶ丘学園を創設[2][3]。
1931年(昭和6年)4月8日 - 文部省より自由ヶ丘学園中学校の認可が下りる[4]
1936年(昭和11年)- 手塚が死去。学園は経営難に陥り、中学校部門は藤田喜作に引き継がれ、現在の自由ヶ丘学園高等学校となる[3]。
1937年(昭和12年)- 成蹊小学校などで教鞭を執った小林宗作が、小学校と幼稚園を引き受ける形でトモエ学園を創設。「リトミックによる創造教育」を実践した[1]。
1944年(昭和19年)- 太平洋戦争激化により、児童の多くが疎開する。
1945年(昭和20年)- 東京大空襲により校舎が焼失[1]。のちに幼稚園のみ再建。
1946年(昭和21年)- 小学校が廃校となり、幼稚園のみで存続[5]。
1963年(昭和38年)- 小林の死去に伴い幼稚園を閉園、以後休校とする。
1964年(昭和39年) - 事実上廃園となる[2]
1978年(昭和53年)- トモエ幼稚園の廃園届が認可される[3]。
備考
自由が丘の地名と駅名は、自由ヶ丘学園の名称に由来する。
跡地は「ピーコックストア自由が丘店」となっていた[1]。2000年代に入りイオン傘下に入った同店は、建て替えに伴い、2021年5月末に閉店した[6]。その後はイオングループの商業施設「JIYUGAOKA de aone」が建設され、2023年10月20日に開業した[7][8][9]。
1988年(昭和63年)、有志により、跡地に以下の記念碑が建立された[1]。この碑は商業施設「JIYUGAOKA de aone」のオープンに伴ってリニューアルされ、2023年11月24日に除幕式が行われた[9]。

Wikipedia:窓ぎわのトットちゃん
『窓ぎわのトットちゃん』(まどぎわのトットちゃん)は、女優・タレントの黒柳徹子による日本の自伝的物語。1981年に講談社から出版された。第5回路傍の石文学賞受賞作品[1]。総発行部数は2500万部を超え、ギネス世界記録に認定されている[2]。
内容
著者の黒柳が尋常小学校へ入学した頃から青森へ疎開するまでの期間に起きた出来事が書かれている、完全なノンフィクション作品である。作中の主な舞台は東京都目黒区自由が丘にかつて存在し[注 1]、黒柳が通学したトモエ学園で、黒柳自身の小学生時代についてはもちろんのこと、トモエ学園におけるユニークな教育方法(リトミック、廃車になった電車を利用した教室など)や、校長である小林宗作の人柄が描かれている。また、黒柳の級友も全員実名で登場し、その中でも初恋の相手として物理学者の山内泰二も登場する。
作中で黒柳自身は、「トットちゃん」と三人称で語られている。これは、当時の本人が舌足らずで名前の「徹子(てつこ)」を「トット」と発音していたことや、「ちゃん」も自分の名前と思っていた事にちなむ。また、「窓ぎわ」とは、出版当時はリストラ予備軍のサラリーマンのことを「窓際族」と呼び出した時期であったためと、著者自身がトモエ学園に移る前に登校していた区立小学校で、チンドン屋を呼び込むために、授業中に窓の傍に立っていたことなどから付けられたものである。
出版・翻案
日本国内での累計発行部数は800万部を突破し[3]、日本国内において「戦後最大のベストセラー」と称される。芸能人やスポーツ選手、政治家等の著書は「ゴーストライターがまとめたもの」が多いとされるが、本作は全て黒柳による自筆で執筆している。初版部数は2万部であったが、瞬く間に版を重ねていった。
オリジナルの日本語版としては、講談社よりハードカバーおよび文庫(講談社文庫)、新書(青い鳥文庫)が刊行(文庫版以降は「あとがき」が加筆)されているが、表紙絵および挿絵は、一貫していわさきちひろの作品である。本作品の児童文学的な面を持つ世界観と、いわさきちひろの画風が調和していたことも、本作品のヒットの一要素であるとも言える。
世界35ヶ国で翻訳され[4]、1985年に、ポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」を受賞。中華人民共和国では、2017年5月に累計発行部数が1000万部を突破している[3]。2023年10月時点で全世界累計発行部数は2500万部を突破している[5]。2023年12月14日には同年9月末時点での全世界累計発行部数2511万3862部を記録対象とし、「最も多く発行された単一著者による自叙伝」としてギネス世界記録の認定を受けた[6]。
1981年、この本の印税全額を黒柳が寄付し、「社会福祉法人トット基金」を設立した。
本作がもたらした影響
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出典検索?: "窓ぎわのトットちゃん" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年3月)
本作の大ヒットにより、黒柳の人気もさらに上昇した(「トットちゃんブーム」)。
作品の一編が小学校の教科書や試験問題などにも採用された一方で、1980年代に管理教育を標榜していた愛知県では、教職員やPTA関係者らが「タレントが執筆した本を図書室に置くとは言語道断だ」と、学校図書館から同書を締め出したことがあった。
1980年、『第31回NHK紅白歌合戦』で、1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』以来22年ぶりに紅組司会を務めた黒柳は、本作の大ヒットにより翌1981年の『第32回NHK紅白歌合戦』でも紅組司会を続投した。以後、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで連続して紅組司会を務めた。黒柳が最後に紅組司会を務めた第34回では、黒柳の紅組司会に対し、白組司会は『気くばりのすすめ』の著者・鈴木健二(当時NHKアナウンサー)であり、ベストセラー作家同士の両組司会として話題になった[注 2]。


人の弱点を見つける天才よりも人を褒める天才がいい松岡修造本願寺鹿児島別院

人を褒めるということは、人をしっかり見て、その人の良いところに注目し、認めていくからこそできることです。
 ところが、社会はどちらかというと人を認めるより、人の弱点ばかり見つけてけなしあうことが増えたと感じます。これでは心豊かな社会とは言えません。
 人に弱点があるということは、自分自身にも弱点があるということです。大切なことは自分自身の弱点、弱さに気づいていくことではないでしょうか。本願寺第8代蓮如上人は「他の人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いことは気づかないものである」とおっしゃるように、自己を省みないことの愚かさを指摘されています。
 自らを省み、自分の弱さを知れば、これまでの見え方が変わりませんか。人の弱点ばかり見つけてけなしあうのではなく、人の良いところを見つけ、そしてお互いを認めあう。そこに心豊かに生きることのできる社会は広がっていくのではないでしょうか。人の良いよいところを見つける天才を目指したいですね。





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Last updated  2024.07.09 22:09:05
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