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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2024.10.06
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自分が高校1年の頃はじまった番組です。かなりセンセーショナルな内容で、当時はテレビが家に1台しかなく、とても家族の前で観る勇気は無く残念に思ったものでした。今、YouTubeでこうして観られるのはありがたいと思います。






■参考リンク
Wikipedia:テレビ三面記事 ウィークエンダー
『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(テレビさんめんきじ ウィークエンダー)は、日本テレビ系列局ほかで放送された日本テレビ製作のワイドショーである。全465回。
製作局の日本テレビでは1975年4月5日から1984年5月26日まで、毎週土曜22:00 - 22:55 (1975年9月まで)→土曜22:00 - 22:54 (同年10月以降)に生放送されていた。遅れネット局では録画放送。1978年からは、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の放送日と重なっていた場合には放送を休止していた。
概要
全国ニュースで伝えられることがないB級事件について、リポーターがフリップボードや再現フィルムを使って解説していた番組である。生放送で放送されていた(司会の加藤芳郎がプロ野球の結果を伝えていたことがあった)。常に30%以上の視聴率を獲得し、日本テレビの看板番組の一つになっていた[1]。当時日本テレビでは朝のワイドショー『あなたのワイドショー』の金曜日枠内で類似コーナーとも言える「テレビ三面記事」が放送されており[2]、本番組はそれを週末のプライムタイム枠に持ってきて、夜の放送に向いた(かつ男性向き)事件内容にスライドさせたスピンオフ番組と言える。
下世話な事件を泉ピン子・大山のぶ代・桂朝丸(後の桂ざこば)・高見恭子・青空はるおらが面白おかしく伝え、特に泉はこの番組で飛躍的に知名度を得た。スタジオでリポーターが喋るという極めて低予算の作りで高視聴率を挙げており、プロデューサーの細野邦彦は「最も低予算でヒットをつくる名人」と言われた[3][4]。
ウィークエンダーというタイトルはいわゆる和製英語で、かつて同じ日本テレビで『ウィーク・エンド・イン』というタイトルのバラエティ番組が放送されていたことから、スタッフがこれを基にした話題で親友の外国人と話し合っているうちに、比較的楽に『ウィークエンダー』というタイトルに決まっていったという[5]。
番組の流れは、番組タイトル→提供クレジット→コマーシャル→ふたたび番組タイトル→出演者・スタッフ紹介→オープニング→最初の記事の順だった。そして番組のラストでは「来週こそいい週でありますように… おやすみください」というメッセージボードが出された。なお、毎年の最終放送では「来週こそいい週」は「来年こそいい年で」と代えられ、さらに毎年一発目の放送では「今年もいい年でありますように…」となっていた。
1984年の時点でも視聴率は約20%を確保しており好調だったが、スポンサーが30分番組を2本提供したいという営業上の理由により終了した[6]。
取り上げた話題
性犯罪や情欲絡みの殺人事件、少女買春などを扱うことが多かったが、当時の番組表によると震災など通常の事件や殺人などの凶悪事件も多少放送しており、番組終了の1984年にはグリコ森永事件やロス疑惑、当時は原因不明の奇病として世界中で恐れられていたエイズなども報じていた。また当時、その存在が世間に知られるようになり、日本医師会と確執状態にあった医療法人「徳洲会」を「24時間いつでも診てくれる」、「患者は廊下の真ん中を歩き医師やスタッフは端を歩く」など好意的に紹介するなどもした。
番組に対する批判
人気番組だったその一方で「表現が過激」「興味本位すぎる」との批判が常にも寄せられた[7][8]。1978年には日本PTA全国協議会が選んだ子供に見せたくない番組「ワースト7」の中にランキングされている[9]。
放送当時、『テレビ腐蝕検証』(1977年刊、汐文社)や『テレビよ、驕ることなかれ』(1983年刊、麦秋社)などの書籍で、青少年への悪影響(性描写に関して)や、事件当事者への配慮の欠如、信憑性などが非難された。
1975年10月18日放送の回で同年9月のストリップ小屋への警察による一斉摘発・抜き打ち捜査の事件を採り上げた際に泉ピン子が「スパっと脱いで一日8万円なら、私もやりたいわ」と発言したことに、ストリッパーで構成する組織「日本成人実演舞踊協団」が抗議。この発言だけでなく「罰金も払って決着は付いていたのに、また蒸し返された」と憤慨した上で「興味本位で事件を採り上げるテレビ局の姿勢が許せない。今後は日本テレビの番組への出演は一切辞退させていただく」と、この番組がこの事件そのものを採り上げたことについても抗議し、同年12月29日に放送を控えていた同じ日本テレビの『11PM』の「恒例!年忘れ大狂乱 紅白ストリップ合戦」についても同協団に所属する30人のストリッパーの出演の拒否を表明し、更に日劇ミュージックホール、ロック座など他団体にも働きかけて、他の局への出演も拒否する方向に持って行くという方針を明らかにし、当時茶の間でストリップが見られなくなるかも知れないという騒ぎになった[10]。その後和解は成立し、12月29日の11PMの紅白ストリップ合戦は予定通り放送された。
初期の「再現フィルム」は殺人事件ばかりをリアルに扱っていたために放送開始後間もなくして抗議を受け[5]、それは局のPR室だけでなくインフォメーションセンターや報道部にまで回り[5]、当時の朝日新聞の電話で受け付けた意見を掲載していたコーナー『0023コーナー』ではこの番組のことで意見が殺到したことで急遽この番組に関する特集を組んだほどであった[5]。果ては司会の加藤芳郎宅にも「イメージダウンになるから変な番組に出るな」「あまりふざけるな」など抗議の電話が行ったほどであった[5]。そのようなこともあって、いったんコーナーが中止になる。復活に際しては犯人の名前など人名を仮名にし、顔写真フリップは目隠し入りで対応した。同時に殺人事件以外に覗き・恐喝・トルコ風呂など、殺人以外の「再現フィルム」も放送されるようになった。
出演者
司会は加藤芳郎(加藤が入院した期間は青空はるおが代理)。1975年4月5日に開始直後は、青空はるお、天地総子、石原裕子、うつみ宮土理、大沢嘉子、大野しげひさ、大山のぶ代、西川きよし、野沢那智、水の江瀧子がリポーター役でレギュラー出演した[11]。その後は、桂朝丸、泉ピン子、横山やすし、青空うれし、すどうかずみ、高見恭子、エド山口、加原夏美(有田美春から改名)、芸能リポーターの井口成人、スイッチョンなどに交代する。桂朝丸が降板後は、桂べかこ→春やすこ→桂雀々(最後の1年だけ)と引き継がれた。のちに政治家に転身した山谷えり子や、『Gメン'75』の主題歌を歌ったしまざき由理もリポーターを務めた時期がある[12]。
クインシー・ジョーンズによる『鬼警部アイアンサイド』のテーマとともに、ナレーターの小早川正昭(元日本テレビアナウンサー)の「新聞によりますと…」で始まる事件解説のイントロダクションが特徴であった。
「再現フィルム」には、柳沢慎吾、山口良一、片霧竜二、大地康雄らが出演した。なかでも笑福亭鶴光のそっくりさんの役者・高嶋洋は常連で、コメディタッチの役柄や変態役でよく出演していた。





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Last updated  2024.10.11 00:47:25
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