カテゴリ:身近な社会問題
アフリカでは原始的な焼き畑農業で生計を立てている部族がいるようです。
焼き畑農業は、集落のまわり森を10等分に分けて、それを順番に焼き払って耕作するそうです。 食料の量は、部族の人間が1年間に食べられる分しか作らないそうです。 もっとたくさんの食糧を得ようと、いつもより多く森を焼き払えば、短期的には多くの食料を確保できます。しかしそんなことをすれば多くの畑がやせて、作物が育たなくなり、飢饉を招きかねません。 だから原住民たちは、今はひもじい思いをしても、多くの森をいっぺんに焼き払うということはしないのです。そして子孫代々まで食料の安定供給を目指しているのです。 普通人間には欲望や本能があります。でもそれらが行き過ぎると問題が生じます。 人と争いを起こす。環境破壊を起こす。挙句の果てには自分たちの首を絞めるようなことになる。 アフリカで、焼き畑農業で生活している人はそのことがよく分かっています。 自然に本能や欲望の歯止めがかかっている。自動車でいえばアクセルとブレーキが正常に作動している。 たくさんのジャングルを焼き払えば一時は収量も上がり自分たちの生活が豊かになることはよく知っている。でもそれでは、これから将来、子どもや孫の時代の生活は保障されない。 だからけっして無理はしない。将来のことを考えて果てしのない欲望は制御しているのです。 それをよく理解しているだけではなく、実際に行動として実践できていることが素晴らしい。 翻って現代人はどうか。快適、便利、快楽、飽食の欲望が暴走してもう制御不能である。 車のブレーキが故障して制御できない。それなのにアクセルを踏み込んでいる状態である。 さらに下り坂に差し掛かっている。この先どんどん勢いを増してスピードが上がる。 将来は暗澹たる閉塞の時代が予想される。欲望の暴走が今や地球を破壊しようとしている。 こういう状態は一つの欲望の充足が、次々と新たな欲望を作り出して、それ自体が目的となってしまっている。アフリカの人たちのような欲望と不安の調和がとれた考えはどだい無理な状況にある。 それが分かるのは人類が破滅する時かもしれない。その時になって初めて、欲望の暴走は間違いだった。 少々不満や生きづらさがあっても、欲望を制御しながら生活することが大切だったのだと気が付くのだ。 破滅というのは、ある超えてはならない一定の限界点を超えた時、急速に終焉に向かって突き進む。 その時の手立てはすべて無駄である。水の泡なのに、欲望の暴走をだれも止めることができない。 今我々の出来ることは、欲望の暴走がとんでもない段階に差し掛かっているということを自覚することである。そしてとりあえず、欲望には近づかないことである。できるだけ我慢することだ。 近づいてしまうとバランス感覚がマヒしているのだから、どうしてもなし崩し的に欲望に負けてしまう。 物欲、所有欲に対しては、今持っているものや今あるものの存在価値を見直すことである。 何か欲しくなったら、今あるもので何とかならないだろうか。改良できないだろうか。 レンタルで済ますことはできないだろうか。などと考える癖をつけていくことである。 森田でいう「物の性を尽くす」ということである。 そして社会の問題、例えば原発問題にしてもそうゆう視点から考えてみることである。 核廃棄物処理が出来ない状態で原発再稼働は子孫にそのつけを押しつけることになるのは間違いない。 ましてモンゴルの地下深くに埋め込むなどという発想には言葉を失う。 原発再稼働を拒否するということは、電力の使い放題は許されないということでもある。 計画停電も受け入れて生活を見直す用意があるかどうかを、我々人類は問われていることにもなる。 そういう方向がいいか悪いかを議論するよりも、そうしないと早晩現代文明は跡かたもなく崩れ去ってしまうということが、高い確率で予測できるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.04.07 12:27:44
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