あるがままの自分を否定しない
キューリはどれもこれもひとつずつ形が異なっている。まっすぐなものもあれば、曲がったりひねくれたのも多い。土と水と太陽の中で、生まれたままの自由な形で自己表現を主張している。われわれ人間にも生来の素質があり、環境によっても性格に違いがあるように、植物にもいろんな差異と変形が生じるのであろうか。言わば遺伝的な性格の違いを、そのまま認めているのである。我々と違うのは、その曲がったまま、ひねたままで精一杯に堂々と成長しているところだ。無理にまっすぐなキューリになろうとはしていない。曲がったままで無心に生きている。私ども人間も生物の一員なのだが、そのかけがえのない資質や性格を排除したり無理に変えようとはしていないか。個性を埋没させ、矯正しようとしてはいないだろうか。生まれながらのありのままの性格を受けいれて、最大限に活かそうとしているだろうか。曲がったまま、ひねくれたままで「自然に服従し、境遇に従順に」生きていきたいものである。(1996年生活の発見誌 11月号より引用)これは平等観と差別観に関係がある話です。人間は誰でも目と耳は2つ、鼻や口は1つずつついています。その点では平等です。ところが一卵性双生児以外は一人として同じ顔の人はいません。人それぞれ固有の身体的特徴を持っています。それは個性というものです。よいも悪いもないはずです。その個性を認めて、個性のままに生きていけばよいはずです。しかし実際には、自分の物差しを使い、美醜の判定をしているのです。それは時代が変われば逆に判定されることもあります。その微妙な違いが時に優越感や劣等感をもたらしています。禿げだ、デブだ、ブスだ、身長が低い、見栄えが悪いなどと判定してしまうと劣等感に振り回されるようになります。神経質性格をよくない性格であると判定してしまうと性格改造を考えるようになります。そんな自分を生んだ親を責めるようになります。このことを森田では劣等感的差別観といいます。元メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男会長は、「人間には10の欠点があれば10の長所がある」と言われていました。自分が元々持っているものや強みで勝負していくことはできないものでしょうか。そのためには、他人と比較して違いをはっきりさせることが大事になります。但しその違いを是非善悪の価値判断に持ち込むことは問題です。そのときは「ちょっと待て」といって思いとどまることが必要です。次にその違いを両面観で見ることが大切になります。弱点や欠点は強みや長所と裏表の関係にあります。弱点や欠点に片寄ることは片手落ちです。神経質性格者はマネージメント力、対人折衝能力などは苦手という人が多いと思います。しかし反面、感受性が強い。好奇心が強い。生の欲望が強い。粘り強い。責任感が強い。物事をより深く考えることができる。分析力に優れている。など優れた性格特徴があります。芸術や創造力の発揮には欠かせないものです。ないものねだりをやめて、自分に元々備わっているものを活かして生きていくしかないと思います。