子どもを思う母の愛は永遠です
作家の西村滋氏のお話です。西村さんのお母さんは、物心ついた時から、なぜか僕を邪険にして、嫌なお母さんだった。散々いじめぬかれて、憎まざるを得ないような母親でした。母親は結核になり父親に離れを作ってもらいそこで療養していました。僕はそこに母親がいることを知っているので、喜んで会いに行く。するとありったけの罵声を浴びせられ、物を投げつけられる。本当に悲しい思いをして、だんだんと母親を憎むようになったのです。そんなわけで西村さんはまともには成長できませんでした。西村さんは孤児院を転々としながら非行を繰り返し、愛知の少年院に入っていました。その原因は母親のせいだと思っていたのです。僕が13歳のとき、家政婦さんだったおばさんが、僕がグレたという噂を聞いて駆けつけてくれました。そして20歳まではと口止めされていた母親の本当の気持ちを聞かされました。母親はいつも僕に結核菌をうつしてはいけないと考えていたようです。わが子をそばに寄せ付けてはいけないという思いに取りつかれていたのです。僕を拒否していたのはその一念だったのです。その頃、僕が幼稚園から帰ってくると、家政婦さんから裏庭に連れて行かれて歌を歌わされるんです。それもできるだけ大きな声で歌うように言われていました。これは不治の病に侵された母が僕の歌を聞きながら、僕の成長に期待を寄せていたというのです。僕はそんなことを知る由もありませんから、6歳で母親と死に分かれたときもちっとも悲しくなかったのです。母親はかわいい盛りの我が子を抱きしめたいという気持ちを断腸の思いで耐え忍んでいたのです。さらに、幼い子が母親が死んで嘆き悲しむのは、優しくされた記憶があるからだと思っていたそうです。憎たらしい母なら死んでも悲しまないだろうと考えていたようです。また、父親が若かったので、新しい継母が来るはずだと考えていたのでしょう。継母に愛されるためには、実の母親のことは憎ませたほうがいいと考えていたようです。悲しいことですが、僕の将来にプラスになることばかり考えてくれていたのです。家政婦のおばさんから初めてお母さんの本当の気持ちを聞いて僕はびっくりしました。そして13歳で僕はようやく立ち直りました。母は僕のことをちっとも憎んでなんかいなかった。僕は母に心底愛されていた子だったんだ。世間一般の愛され方とはだいぶ違っていたけれども、愛情いっぱいに育ててもらっていたことが分かり、とめどなく涙があふれてきました。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 藤尾秀昭 致知出版社 72ページ参照)高齢になっても、一番気になるのは自分たちのもとに生まれてきてくれた我が子のことなんですね。万葉集に山上憶良の歌がありますが、子どものことを気に掛ける親の気持ちでいっぱいです。銀(しろかね)も 金(くかね)も玉も 何せむ まされる宝 子にしかめやも不器用な子育てで子どもから総スカンを食っていたとしても、子どもの幾末をいつまでも気にかけているのが親なんですね。「親孝行したいと思ったとき親はなし」後悔あとを絶たずにならないようにしたいものです。