昭和6年の3月事件(最初のクーデター計画)を企てた橋本中佐が中心となる「桜会」の設立趣意書ですが・・・・
「現今の社会層を見るに、高級為政者の背徳行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家、華族、国家の将来を思わず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、・・・官公吏の自己保存主義、等々邦家のため、まことに寒心に堪えざる事象の堆積なり。
更に之を外務方面に見るに、為政者は国家百年の長計を忘却し、外国の鼻息を窺うことのみきゅうきゅうとして何ら対外発展の熱を有せず、・・・・
内治外交の政策上の行き詰まりは政党者流が私利私欲の外一片の奉公の大計なきに由来する・・・・・
吾人もとより軍人にして直接国政に参画すべき性質に非ずといえども一片こうこうたる奉公の至誠は折に触れ時に臨みてその精神を現し、為政者の革正、国政の伸張に資するを得べし。・・・・」
この文言は今の世にも当てはまるようで、悲憤の様子に共感さえ覚えないでもないが・・・
しかし 未遂に終わったこのクーデター計画はかなり杜撰であったらしく、陸軍上層部への開けっぴろげな説得といい、連日待合での饗宴といい、軍人の奢りがあったようです。
夏ごろに政財界に3月事件未遂が伝わったが、一人の処分もなかったことのほうが問題だったかもしれないですね。
また 石原莞爾中佐らが柳条湖事件の謀略を計画したのが5月、実行が9月と同時進行してたのが当時の世情です。
柳条湖事件の後、若槻内閣が不拡大方針を出すと橋本たちは、更に10月事件を画策したがこれも未遂であり、その処分は橋本が20日の重謹慎になった程度で終わっています。
一方 関東軍を抑えきれなくなった陸軍中央は錦州攻撃を容認したが、その4日後、12月11日若槻内閣は総辞職に追い込まれた。
私は昭和6年の一連の事件が日本滅亡への転換点だったと思うのですが・・・・
陸軍そして内閣はなぜ石原中佐の暴走を抑えきれなかったのか?と疑問に思うんですよ。
もちろん 軍人や右翼によるテロへの恐怖があったでしょう。それと・・・
もしかしたら メディアや在郷軍人会とかがリードする日本の世情が橋本中佐や石原中佐の暴走を容認したのではないかとも思っています。
歴史で、もし・・と考察するのはばかげているが、柳条湖事件のあと不拡大を貫いていれば、日米戦回避とか違った形の歴史になったかもしれませんね。
しかし 拡大志向が強いソ連とはいずれ別の戦争があり、今より悲惨な現在があったかもしれないかな?(いかん これは妄想のたぐいだ)
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