敗戦前の話だが、どこから一億玉砕というような標語が出てきたのだろうか?
国体を護持するためには、臣民が玉砕すればよかったのだろうか?
敗戦を経て、一億玉砕という標語から1年もたたぬうちに一億総懺悔という流行語がうまれるが、どちらも出どころはお役人からである。
なんという軽さ、変わり身の早さというものだろう。
敗戦直前で狂っていたにしろ、こういう無責任で残酷な標語をつくり、流布させたお役人は、やはり許せないでしょう。
本土決戦方針に基づいて沖縄で「出血持久」という無慈悲な時間稼ぎを行い・・・・
(護持すべきものは国民ではなかったという愚かさはどこから来たんだろう?)
本土では実際には戦闘を行ったわけではなかったが、一億玉砕を強いるような天皇制集団無責任体制というものは臣民にとっては、ある意味アメリカ軍より怖いものではなかったのか?と想像します。
そして怖いと言えば、現代の行政システムが戦時と同じこと、戦時の事実に迫る態度を自虐という言葉で非難する風潮、テロに屈しないという理由で派兵延長を容認すること、NHKに対する検閲疑惑・・・・・
などタカ派的偏向が目につくことです。
タカ派的偏向に対しては、自虐と呼ばれようが“非戦の偏向”でバランスをとるのがリベラルな態度ではないかと思うのですが・・・・
山口二郎教授が言っている自己修正能力(下記)とは非戦の偏向とでも言うものではないかと思います。
歴史を批判的に振り返り、誤りを誤りとして直視する態度を自虐的と呼ぶ社会には、自己陶酔だけがはびこり、自己修正能力は育たない。靖国問題にしても、戦争を指導した者の責任を明らかにすることと、戦争で犠牲となった人々を追悼することを明確に区別しなければ解決はありえない。死者を糾弾することには意味はない。しかし、戦争指導の実態を解明し、誤った政策決定を検証することは、自己修正能力を持つための必須の条件である。単に死者を賛美するだけでは、戦争そのものを引き起こした知的な欠落や個人の不在を未来に引き継ぐ結果に終わるに違いない。
現在の国内の雰囲気が満州事変以前とさして違わない・・・とよく言われるけど、怖いですね。
サマワの基地にこもり、象徴的に旗を立てることが国際貢献なのか?・・・対米追従という無責任な官僚の御都合によって生命の危機にさらされる自衛隊員がかわいそうではないか?
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