「漢字がつくった東アジア」という本を2週間で読みきれず、延長借り出しして読んでいます。
書家でもある石川さんの本であるから、漢字そのものの記述が多いのですが、歴史に対するセンスが素晴らしいわけです♪
それでは、朝鮮史の章から、石川さんの喧嘩両成敗のような歴史認識を拝聴いたしましょう。
<立ち上がる朝鮮半島>p111~114
高麗の時代になると中国風の科挙制度が創設されます(958)。この制度は1894年まで存続します。このことを考えるだけでも、いかに朝鮮という国が中国風であるかがわかります。高麗時代から1894年まで、日本でいえば明治20年代まで、一貫して科挙制度がつづいていました。次第に形骸化されていくとはいえ、朝鮮では科挙試験によって選ばれて人が官僚になる制度を1000年近くつづけてきたのです。
形骸化されていったとはいえ科挙制度が1000年近くつづきました。そこに登場してくるのが「両班」という朝鮮の支配層です。両班とは、もとは国家行事の際、南面した皇帝に対して東側に文官が並び、西側に武官が並んだことに由来して、この文班と武班の二列の並びのことを意味したのです。両班という呼称は、科挙のはじまった高麗当初からあったのですが、李朝時代になると科挙合格者・官僚就任者が固定し、社会的身分となり世襲化されるようになります。そして、両班は中央にあっては高級官職の地位を独占し、地方にあっては農村に土着してその地域を実質的に支配していきます。
日本はついに宦官の制は入ってこなかったのですが、朝鮮には宦官もいました。また、大陸に仕官することも、大陸との政略婚もありました。たとえば、元の時代には、1274年以降に高麗の王族は元の皇女を妃としてもらいました。これによって元の皇室の一員になるのです。また、王族の子弟は成人し、独立して朝鮮の王様になるまでのあいだ、みんな北京の元の皇室で育つのです。そして王になると朝鮮に帰ってくる。なかには忠宣王(1275~1325)のように即位後も帰らず、北京で政治を執った王様もいるくらいです。この時代には辮髪やモンゴル風の衣装が朝鮮で採用されていました。
年号は、古くから中国の年号をそのまま採用し、独自の年号は、19世紀末の大韓帝国時代になって使いはじめます。朝鮮は、こういうかたちで中国史とかなり密接に同伴しています。この事実はまず知っておいたほうがいいと思います。
<古代世界をどう考えるべきか>
少し補足しておきます。大陸の中国があって、半島の朝鮮があって、孤島の日本があって、それぞれが自らの歴史をどのように捉えているかというと、たとえば日本では「まず麗しい倭があった」と考えられています。それが天皇制と結びつき、現在までつづいていると考えるのです。他方、朝鮮では「まず古朝鮮があった」と考えられています。檀君神話のように、「神話と結びついた古朝鮮がまずあって、それがいったんは漢によって滅ぼされた」けれども、「古朝鮮がもういちど復活する」という考え方が、北と南を問わず朝鮮の人たちの抱く歴史観です。檀君神話と白頭山が重なるのです。それゆえ金正日は白頭山に生まれたと知らしめることになるのです。
日本の場合も同じように、戦前は古代神話が史実でもあるかのように教えこまれていました。しかし、いつまでも神話を根拠にしているわけにもいかないので、神話に代わるものとして縄文が持ち出されるようになった。麗しい、素晴らしい縄文があった、と。青森県の山内丸山遺跡を見て、司馬遼太郎さんは「世界に冠たる文明があった」と書いています。梅原猛さんも山内丸山遺跡を激賞するわけです。縄文こそが日本のふるさとであり、古朝鮮にならっていえば「古日本があった」ということになります。
ところが、その縄文時代が直接に現代に繋がっているわけではないところでは、口を濁すのです。どう考えても、弥生時代に大陸や半島から日本列島に多数の人々がやって来た、否、正確には人々がやってくることによって弥生化したことに間違いなさそうです。大陸や半島からの人々が多数やって来たことが何を意味しているのか、そのことを歴史家ははっきりと言わない。
要するに、古朝鮮も古日本も誤りなのです。その考え方さえ改められれば、東アジアの問題はすべて見事に解けます。では、どう改めるのか。「孤島に、大陸からも半島からも、南からも北からも、いろいろな人が集まってきて、その人たちとともに日本をつくった」と考えるのです。それがだいたい650年頃から700年頃にかけての出来事です。朝鮮も同様で、その頃に統一新羅が半島に成立します。
いずれにしても、かつての東アジア圏の影響下にあった。やがて少しずつ違いを形成し、まず日本が中国から切れるのです。ところが朝鮮の場合は異なります。国として立ったものの、中国との関係はずっとつづいていきます。最終的に中国と切れたのは近代になってからで、1897年のことです。それまでは中国の皇帝が国王を任ずるという冊封体制のなかにありつづいたのです。冊封体制とは、中国の皇帝にお土産を持って挨拶にいくと、中国がその何倍にも相当するものを返すという関係です。この関係を完全に断ち切ったのが国号を大韓帝国と改め、王・皇宗が皇帝に即位した1897年です。
「古朝鮮」の存在を考えることは美しいロマンです。そう考えたい気持ちはわかります。けれども、それが事態をわかりにくくしています。日本の縄文、古代幻想も同様です。そうではなく、いずれも、いちど中国の文明に入ったものが、その影響下から独立していったと考えるのです。日本が独立し、朝鮮が独立するというかたちで国と文化をつくったと考えれば、東アジアの問題はきれいに解けます。
近代からスタートするから間違うのです。そうではなく、もともと東アジアは境界線のないままひと繋がりに入り混じっていたのであり、少しずつ地域ごとに違いが生じ、やがてその違いが鮮明になったと捉えればいいのです。その違いを明示するに至った原動力は何か。朝鮮の場合は1450年頃にできたハングルです。日本の場合は900年頃に生まれた女手(=平仮名)と片仮名です。これらの文字の使用が、それぞれ独自の文化を生み出すことになったのです。
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日本が最初に中華圏から独立したとする切り口が、ええでぇ♪
日韓お互いの歴史認識を正すためにも、歴史に対するこのようなセンスが求められるのでしょうね。
【漢字がつくった東アジア】
石川九楊著、筑摩書房、2007年刊
<「BOOK」データベースより>
始皇帝が文字を統一したとき、漢字が東アジアの歴史を照らし始め、漢字文明圏が決定づけられる。やがて大陸(中国)の変動に呼応する形で、平仮名(日本)、ハングル(朝鮮)、チューノム(越南)が生まれ、それぞれの文化の枠組みが形成されてゆく。その延長上に現代を位置づけなおすとき、二十一世紀が目指すべき方向が見えてくる…。鬼才の書家が巨視的な観点から歴史をとらえなおし、国民国家を所与とする世界観を超え、読者を精神の高みへと導く知的興奮に満ちた一冊。
<大使寸評>
漢字の生い立ち、漢字文化圏に関する本には、つい手が出てしまうのです。
日本が最初に中華圏から独立したとする切り口が、ええでぇ♪
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漢字がつくった東アジア1