図書館で『縄文の思想』という新書を手にしたのです。
岡本太郎が縄文の美を発見して以来、われわれは常に「縄文性」が気になっているのではないか?
【縄文の思想】
瀬川拓郎著、講談社、2017年刊
<「BOOK」データベース>より
アイヌ・海民・南島…。縄文は、生きている!!!われわれの内なる「縄文性」に迫る、まったく新しい縄文論。
<読む前の大使寸評>
岡本太郎が縄文の美を発見して以来、われわれは常に「縄文性」が気になっているのではないか?
yodobashi縄文の思想
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海民の誕生を、見てみましょう。
p53~55
<海民の誕生>
弥生時代になると、日本列島の海辺の人びとは、サメ、マグロなど外洋での大型魚の漁や、アシカ、クジラ、ウミガメなど海獣類の猟、アワビの大量採捕といった、高度な漁猟や特定種の漁撈に特化するようになります。
弥生文化のなかで生じたこの変化は、実は縄文時代の生業の深化とむすびついていました。
縄文時代の日本列島では、クジラ猟や外洋での大型魚の漁といった高度な海洋文化が、三陸から仙台湾沿岸、福島県沿岸、長崎県から熊本県の有明海沿岸などに偏在していました。設楽博己は、弥生時代の海民の海獣狩猟や漁撈の文化は、これら各地の縄文文化の高度な漁猟法を選択的に受容したものである、としています。
また、弥生時代になると各地の漁猟場の開発も一気に進みます。たとえば、石川県能登半島の50キロメートル沖にあるヘグラ島は、弥生時代中期初頭になってはじめて人びとが渡海しますが、その目的はアシカ猟であったとされています。
第2章でのべるように、弥生時代をむかえると、北海道の人びとも東日本や西日本など各地の海民から新たな漁撈具や漁撈法を導入し、外洋での大型魚の漁や海獣狩猟を積極的におこなうようになります。
つまり海民とは、弥生文化という新たな時代状況のもとで、各地に偏在する高度な縄文伝統の漁猟文化を導入しながら、列島全体で専業的な海洋適応の暮らしを構築していった海辺の人びと、ということができるのです。
もちろん農耕民も漁撈はおこなっていました。しかしそれは海辺での網漁や、タコ壷をもちいたイイダコ漁、河川での竹などの細棒を編んで筒状にした漁具を使ってのウケ漁など、経験や技術を要さず、性別や年齢に関係なくおこなうことができる受け身的な漁です。そこには専業性もうかがえません。設楽は、このような受け身の漁法は、大阪湾岸や濃尾平野など大陸的な文化要素が強い農耕集落に顕著にみられることから、農耕文化と一体で大陸から伝わったものと考えています、
この海民化は、漁撈だけでなく、弥生時代に活発化した広域的な海上交通も上げられます。設楽は、このような海上交通による列島全域の遠隔地交流も、弥生文化のひとつの特徴としていますが、それを担ったのは、縄文時代に蓄積されてきた海の自然知を受け継ぐ海民だったのです。
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『縄文の思想』1