図書館で『知られざる縄文ライフ』という本を、手にしたのです。
火炎型土器、土偶、岡本太郎・・・この流れは、縄文人、縄文ライフにたどりつくわけで、この本をチョイスしたのです。
ぱらぱらとめくると、全ページにカラー画像満載のビジュアル本である・・・
とにかく、疲れてきたらビジュアル本でんがな♪
【知られざる縄文ライフ】
譽田亜紀子著、誠文堂新光社、2017年刊
<出版社>より
現代を生きる私たちにとって、誰もが知っているようであまり知らない、縄文時代。
この本は研究から見えてきた縄文を、小難しいことを抜きにしてザックリ知るための縄文入門です。
縄文時代ってどんな時代だったのでしょう?
1万年というとてつもなく長い年月の中、縄文人たちはどのように暮らしていたのでしょうか?
ご飯は? トイレは? 服はどんなものだった??
そんな身近な疑問をヒントにすれば、意外と知らなかった縄文時代をノゾキ見するための手掛かりがきっと見つかるはず。
<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、全ページにカラー画像満載のビジュアル本である・・・
とにかく、疲れてきたらビジュアル本でんがな♪
rakuten知られざる縄文ライフ
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縄文人と渡来人が語られているので、見てみましょう。
p150~151
<縄文から弥生へ>
およそ4万年前に日本列島に人が渡ってきて以来、絶えず大陸から人が流れてきていたと考えられますが、縄文晩期の終り頃になると日本列島の南と北では大きな違いが見られるようになりました。列島の南、北部九州の地で、海を渡ってきた渡来の人々によって水稲栽培が始まったのです。
既に縄文時代に米は日本列島に存在していましたが、稲作という農業システムとして、集団と共に列島にやってきたのがこの時期だと考えられ、約千年間の弥生時代がスタートするのです。
今までの暮らしの中で、渡来の人々にある程度慣れていたであろう西北部九州の縄文人も、稲作のように土地を必要とする大規模システムを持ち込もうとする渡来の集団とは、何らかの摩擦があったはずです。自分たちが暮らす領域に訳の分からない水田を作ろうとする人々に対して警戒し、追い出そうとするのは当然の心理です。そこでは争いによって問題を解決するという方法がとられることもあったでしょう。しかし、このような解決方法ばかりではなかったようです。
例えばこんな遺跡があります。福岡県福岡市の金隈遺跡は弥生時代の共同墓地とされています。当時の埋葬方法の主流である甕棺墓に残っていた多くの男性人骨の平均身長はおよそ160cm。その他、風習的抜歯をした人骨も見つかりました。つまり、文化的に弥生時代と縄文時代の特徴を持った人が同一の墓域に埋葬されていたという事になります。
この事実からも分かるように、弥生時代になると人種も文化も一新されてしまったのではなく、時には摩擦も起こしながらそれでも縄文人は渡来の人々や文化を受け入れ、新しい日本列島を作っていったのではないでしょうか。
このようにして縄文時代晩期から弥生時代に移り変わる時期の九州から近畿にかけての西日本では、弥生の文化が色濃くなっていくわけですが、この後、稲作が拡大していくまで東日本では依然として縄文的な色合いをもって人々は暮らしていたようです。
例えば、北海道。この地には弥生時代がありません。他の地域で米作りが始まり弥生の文化が全国的に浸透したにも関わらず、米を作ることなく従来の縄文的な暮らしのまま日々を生きていきます。それが「続縄文時代」といわれる時代です。山海の食料が豊かであった北海道では米作りを選択する必要がなかったのです。
(中略)
とは言うものの、人種の融合はもちろんのこと、時間が進むにつれて列島の文化は既存の縄文文化と渡来の人々がもたらした文化の融合が進み、支配階級が現れる混沌とした弥生時代を経て、明確な権力者が出現する古墳時代へと変化していったのです。
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ウン 自分には、縄文人と渡来人の両方の血が流れているという感じはしているのだが・・・
どうしても、シェアリング傾向の縄文人に、肩入れしたくなる今日この頃でおます。
『知られざる縄文ライフ』3:縄文人はどこから来たの?
『知られざる縄文ライフ』2:縄文の美の発見者
『知られざる縄文ライフ』1:鬼界カルデラで大噴火があり