図書館で『コロンブスからはじまるグローバル社会I493』という本を、手にしたのです。タイム誌ベストノンフィクション部門の第1位になったとか・・・さて、どんなグローバル社会なのか。
【コロンブスからはじまるグローバル社会I493】
チャールズ・C・マン著、あすなろ書房、2017年刊
<「BOOK」データベース>より
コロンブスのアメリカ到達によって、世界はどう変わったのか?さまざまな思惑によって、人とモノが行き交い、世界がつながっていく様子をダイナミックにたどる新しい歴史入門書。タイム誌ベストノンフィクション部門(2011年度)第1位の大著が、わかりやすくコンパクトに!
<読む前の大使寸評>
タイム誌ベストノンフィクション部門の第1位になったとか・・・さて、どんなグローバル社会なのか。
rakutenコロンブスからはじまるグローバル社会I493
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ポトシ銀山
「第5章 ガレオン貿易」でガレオン貿易を、見てみましょう。
p112~115
<ガレオン貿易>
16世紀から18世紀の間に、アメリカ大陸のスペイン植民地からは、15万トン以上の銀が産出された。その“スペイン銀”は、世界の貴金属の供給量を二倍、いや三倍に急増させた。
世界中にあふれたスペイン銀は、諸政府や銀行などの金融機関を圧倒した。スペインのペソ銀貨が世界の基軸通貨となって、今日のユーロのようにヨーロッパ諸国を結びつけた。ペソはポルトガル帝国、オランダ帝国、イギリス帝国の主要通貨となり、フランスやドイツ諸邦でも広く使われた。
ヨーロッパ中に銀が流通し、さらにまた大量の銀が流れこみ、通貨供給量は爆発的に増加した。これがインフレと財政不安を招いた。常軌を逸した大量産出が60年間つづくと、銀は供給過剰になり、価値が下落しはじめた。1640年の100万ペソの価値は、100年前の1540年当時の三分の一にまで落ちていた。
銀の価値下落にともない、スペイン帝国の財政をがっちりと支えてきた銀採掘による利益も大幅に減少した。国王は依然と同じ量の銀を納税させていたが、価値の急落によって、国庫はたちまち危機におちいった。スペイン経済の黄金期は消え去った。
同じくスペイン銀に依存していた十数ヶ国の経済も、導火線でつながれた爆竹が破裂するように、次々と破綻していった。すっからかんになった貧者たちは絶望のあまり、通りで拾った石を投げつける相手を探した。経済破綻が暴動と革命を引き起こしたのだ。スペイン領ネーデルラント(現オランダ、ベルギーなどの地域)や併合されたポルトガルが、宗主国スペインに対して独立戦争を起こし、フランスでは王と貴族が激しく対立する内乱があり、1618年から48年にかけては、ドイツを中心にヨーロッパ全土を巻きこむ30年戦争が勃発した。
ヨーロッパの動乱の原因は、アメリカ大陸産の銀だけではないが、銀という糸はさなざまなもめ事を結び合わせてしまった。当然、混乱による被害も甚大だったが、銀貿易の専門家である歴史学者によれば、それは「付随的な事件」にすぎなかったという。大量の銀は、アジアへも流れていたのだ。その大部分が中国福建省にある、海賊と海商の歴史をもつ月港へ行きついていた。
ガレオン貿易の中国側の拠点は福建省だった。スペインの船はメキイコで積みこんだ銀を、太平洋を渡って福建商人に売り、福建商人からは中国製の商品を仕入れた。しかし、実際のやりとりが行なわれていたのは、1571年、レガスピの探検隊が初めて中国船と出会ったフィリピンだった。
1580年代半ばになると、福建にある月港は毎春に、20隻以上の大型ジャンク船をフィリピンに送るようになっていた。どの船にも、売れる可能性がありそうな、ありとあらゆる品物とともに、500人もの商人がすし詰めになって乗りこんでいた。主役は絹や陶磁器だったが、木綿、砂糖、栗、象牙、宝飾品、家具、ウシやウマ、ミカン、小麦粉など、ヨーロッパ人がほしがりそうなものならなんでも積んでいた。航海は危険だった。たいてい倭寇が待ち伏せしていたからだ。
ぶじにフィリピンに到着したジャンク船は、マニラ湾をはさんだマニラ市の真向かいにあるパリアンに船をつけた。福建商人は、そこでマニラ在住の中国人販売代理人と落ち合った。代理人たちは、最近入港したガレオン船がどれほどの銀を積んでいるかを把握しており、価格設定についても助言してくれるのだ。パリアンは、要塞都市マニラの城壁の外側に、スペイン人が建設した中国人居住地だった。
大きな倉庫群を中心に、商店や茶店、飲食店が迷路のように入り組んで軒を連ねていた。狭い通りはいつも、幅広の長い袖がついた長衣を着こみ、手のこんだ刺繍をほどこした絹の靴をはき、まん中が高くなった丸い帽子をかぶった男たちで込み合っていた。
ガレオン貿易がはじまってから約20年後の1951年には、パリアンには数千人の中国人が暮らすようになっており、数百人のヨーロッパ人しか住んでいないマニラ市中心部を圧迫していた。中国人にとって、この状況は好都合だった。明当局の監視の目が届かない異国に、中国人街を築くことができたからだ。
スペイン人は、パリアンを異質でうさん臭い存在として警戒していたが、同時になくてはならぬものでもあった。中国人はスペイン銀に、ほかの国の二倍も払った。しかも彼らは、驚くほど安い値段で絹や陶磁器を売るのである。
(中略)
いずれにしろ、きわめて大量の銀が中国へ行ってしまったのだ。あちこちで戦争中のスペインの国王は、物資を買い入れ、兵士に給料を払うために銀を必用としていたため、この事態に憤慨した。
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ウーム 当時の世界経済はマニラ在住の福建商人が回していたのか、マニラがウォール街だったのか。
『コロンブスからはじまるグローバル社会I493』2:鄭和の大遠征
『コロンブスからはじまるグローバル社会I493』1:コロンブス交換