図書館で予約していた『中国の大盗賊』という本を待つこと5日でゲットしたのです。
共産党の中国とは盗賊王朝とのこと・・・これは読むっきゃないで。
【中国の大盗賊】
高島俊男著、講談社、2004年刊
<「BOOK」データベース>より
昔、中国に「盗賊」というものがいた。いつでもいたし、どこにでもいた。日本のどろぼうとはちょっとちがう。中国の「盗賊」はかならず集団である。これが力をたのんで村や町を襲い、食料や金や女を奪う。へんぴな田舎のほうでコソコソやっているようなのは、めんどうだから当局もほうっておく。
ところがそのうちに大きくなって、都市を一つ占拠して居坐ったりすると、なかなか手がつけられなくなる。さらに大きくなって、一地方、日本のいくつかの県をあわせたくらいの地域を支配したなんてのは史上いくらでも例がある。しまいには国都を狙い、天下を狙う。実際に天下を取ってしまったというのも、また例にとぼしくないのである。幻の原稿150枚を完全復元。
共産党の中国とは盗賊王朝である。劉邦から毛沢東まで伝説の完全版がよみがえる。
<読む前の大使寸評>
共産党の中国とは盗賊王朝とのこと・・・これは読むっきゃないで。
<図書館予約:(8/01予約、8/06受取)>
rakuten中国の大盗賊
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長征
毛沢東の続きで長征あたりを、見てみましょう。
p288~290
■長征
李自成は南へ逃げたが紅軍は西の人煙まれな地域へむかって逃げた。人煙まれな地域は、自然条件はきびしいし、食いものもとぼしいが、それだけに敵の大部隊もいないから、そっちへ逃げたのである。
ただし根拠地好きの毛沢東は中華ソヴェトを放棄して逃げるのには反対だったが、中央委員会が移ってきてからは、地位をはずされてそれこそ窓際族になっていたので、根拠地撤退を決めた会議には出ていなかった。
逃避行が始まってまもなく、1935年の初めに貴州の遵義という所で会議があり、ここで毛沢東は、こういうみじめなことになったのはトップの軍事指導がまちがっていたからだと、総書記の博古を引きずりおろした。周恩来は形勢を見てとって毛沢東のほうに乗りかえた。毛沢東が博古に勝てたのは、周恩来が大事な時に毛沢東に寝返ったからだと現在の中国では評価されている(〇)。
周恩来あこの時まで党中央軍事委員会の主任で、毛沢東の直接の上司だったのだが、この時から忠実な取り巻きになって、以後40年、死ぬまで重用されることになる。なお、文化大革命の際にも、決定的瞬間に毛沢東を支持して劉少奇を死地におとしいれたのはよく知られるところだ。「不倒翁」(おきあがりこぼし)と言われるゆえんだ。
今日の中国では「偉大な遵義会議」と称して、この時から毛沢東が党と軍の指導権を一手に握ったと言っているが、それは必ずしもそうではない。
というのは、共産党の最高クラスの幹部が全部「長征」に加わっていたのではなく、王明というのがモスクワにいるし、張国濤というのが四川省のほうで自分の根拠地を持っているし、それに何といっても中国共産党は国際共産党(コミンテルン)の支部であって、本部のモスクワに大親分のスターリンがいる。
中国共産党が完全に毛沢東のものになるのは、王明を倒し、張国濤を倒し、国際共産党が解散する1943年、・・・まだ十年も先である。
「長征」に参加した紅軍というのは、全部が初めからしまいまで行動を共にしたのではなく、別のコースへわかれて行くのもあるし、ほかの根拠地から出発したのが途中から合流してくるのもあるし、なかなか複雑なのであるが、毛沢東の主力についていえば、中国の西の端をぐるりと大まわりして、1年後の1935年末に、北西の陝西省の根拠地にたどりつき、その後延安を中心とする「解放区」を作った。
毛沢東にとって「長征」の旅は、もちろんたいへん苦しい旅だったが、一面来る日も
来る日も馬に乗ってトボトボと進むという退屈な旅でもあった。
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「七割の力を党の勢力の拡大に、二割を国民党との対抗に、一割を日本との戦いに」というのが毛沢東の方針だったと言われているそうで・・・思想的な裏付けがあるわけではなくて、農民的な深慮遠謀だったようです。
『中国の大盗賊』3:李自成
『中国の大盗賊』2:毛沢東
『中国の大盗賊』1:「盗賊」とはどういうものか