仙台散歩 : 「原発やんだっちゃ! 金曜日の会」(勾当台公園)まで
今日も夕方の町の中に散歩に出かける。先週は「大飯を止めろ!女川再稼働するな!子供を守れ!汚染はいらない!みやぎ金曜デモ」で一番町、青葉通りを歩いたが、今日は、宮城県庁前の勾当台公園へ行って戻るだけである。 公共交通機関を使わないで出かける街歩き、山歩き、あるいは日々の散歩は、いつも必ずイオ(♀、11才)が一緒である。それが私たちの黙契である。 しかし、例外もある。蔵王の刈田岳から熊野岳の道のような登山客が多い山や、通行人の多い街中は一緒に歩けない。イオは、極端な「山好き、人嫌い」なのである。それこそ、何かイベントをやっている勾当台公園などには一丁も二丁も先から近づくことを頑強に拒否するのだ。 それなのに、私の外出先がどこかはけっして理解しない(当然だが)。「連れていけ」とひとしきり大騒ぎをするものの、「イオは留守番です!」と宣告されると、玄関に座り込んで恨めしそうにこっちを見つめるのである。今日のこの姿勢は、それでも、しっかりと我慢しようというつもりにはなっているらしい。 「そんな顔をしない!」。 (2012/7/27 17:35) ちょっとした心理的障害を乗り越えて、ひとり散歩に出かける。といっても、途中まで毎朝のイオとの散歩コース、西公園や定禅寺通りである。仙台に長いこと住んでいて、とくに珍しい観光スポットがあるとは思えなくなっているのだが、それでも定禅寺通りのケヤキ並木は迫力があると思う。60年くらいでこんな深い森のような印象を与えるケヤキはほんとうに偉い。人間には滅多にいないが、「存在に徳がある」のだ。 定禅寺通り。 (2012/7/27 17:49) この定禅寺通りの先に勾当台公園がある。今日、そこで開催されるのが「原発やんだっちゃ! 金曜日の会」の集まりである。主催は「原発やんだっちゃ医療有志の会」ということである。Twitter情報では、今週の「脱原発みやぎ金曜デモ」はこの集会に合流、そちらの次回は8月3日(金)である。 18時をちょっと過ぎて勾当台公園に着いた。思ったより人は集まっている。私の情報源はtwitterだが、私の友人、知人でtwitterを利用している人間は皆無であることを考えると、集まりはとてもいいように思える。ただ、けっこうなお年の(つまり、私くらいの)参加者も多いので、direct communicationの効果も大きいのだろう。 勾当台公園。150人ほどの集会。 (2012/7/27 17:39) 集会はフリースピーチ形式というのか、主催者の挨拶のあと、希望者が次々に思いを語るのである。ときどきしんみり、ときどき激しい怒り、ときどき絶叫、そしてときどきシュプレッヒコール、と進行していく。 「とんでもないことを言う奴がいる。東北大の教授だ!」というスピーチもあって、一瞬興味を惹かれたが、知らない名前だった(部局が違えば、ほとんど知らないのだから当然だが)。「科学者を信用してはダメだって」と思っている元科学者が、夕暮の公園でそんな話を聞いているのだ。 それにしても、たくさんの人が言いたいこと、訴えたいことを抱えている。そして、それはなかなか届けたい人には届かない。かといって、原発事故で始まってしまった新しい時代から引き返すことはできない。 うのさえこさんが「週間金曜日」にこう書いている。 「絶望こそが希望である」。集会で武藤類子さんが紹介した、ジョアンナ・メイシーの言葉です。「かすかな光をたぐり寄せ」集まった一七万人の上にあった青空は、今、私の頭上にもあります。絶望の中で、絶望よりも深く大きい何かを生みだす私たちを、見守ってくれています。 [1] 集会は、予定通り1時間で終了である。最後のシュプレッヒコールの頃には、空は美しい夕焼けである。「太陽は明日を昇るためにこそ、今日を沈むのである」などと、じつに柄にもない感傷的な気分がよぎる。「絶望」と「希望」を「感傷」で薄めてはならない、とは思うものの。 仙台市役所上の夕空。 (2012/7/27 17:57) [1] うのさえこ「絶望こそが希望である」『週間金曜日』2012.7.27(905号)、 p. 34。