トライアスロン・ジャパンカップ in 佐渡1989(SWIM3.9km)
1989年9月17日午前6時、スタート会場ではもう大勢の選手が集まっている。
スイムスタートの前のこの緊張感。今日この時点まで、やれるだけのことは十分にやってきた。あとは最善を尽くすのみだ。
ウェットスーツずれが起こらないように肩から脇、腕、胸に至るまでワセリンをたっぷりすりこみながら、僕は周辺にいたトライアスリートたちの表情をじっくりと観察していた。そうすることで少しでも緊張感がほぐれそうな気がしたが、時折吹く風のせいもあって、体の震えも止まらなかった。
3.9キロのスイムは実のところ未知の距離だった。7~8月の間、プールでは最長3キロを何度か泳いでみたものの、海とプールではかなり違いがあるので、決して同じようには行かない。
しかし、幸いなことに海はベタ凪で、水温も20度を越える好条件だ。ちょうどプールが異常に馬鹿でかくなって、水に塩味がついたと思えばいい。
6時半、Aタイプ(スイム3.9km、バイク184km、ラン42.2km))約900人のスタート。コースロープ付近はトップクラスの選手が一斉に飛び出す。僕は水中プロレスを避けるために、できるだけコースロープから離れた位置からスタートすることにした。
これまで何度かショートタイプのトライアスロンには出場していたが、スイムスタート時、前を泳ぐ選手のバタ足キックで後頭部を蹴られたり、近辺を泳ぐ選手の水をかく手が自分の背中を引っかいたり、その手でブレスしようとする自分の頭を押さえられ、沈められたりするというようなバトルが必ず起こる。集団スタートだからそれはやむを得ない。
水泳があまり得意でない上に、海で泳ぐのに慣れていない僕にとっては、どこからスタートしようが大差は無いのだ。
朝日が水面を照らしている。朝日を受けてキラキラと輝く海は、本当に美しい。トライアスロンのスタートにふさわしい朝のすがすがしい風景。まさに、僕の鉄人記念日となるべき、長い長い一日のスタートでもあるのだ。
コースロープはアルファベットのT字を左に倒した状態に張られている。まず岸から沖に向かって850m泳ぎ、最初のブイで折り返してから、1100mのT字の垂線の部分を泳いで再び折り返す3.9キロのコースだ。(図参照)
クラゲが時折顔や体に触れるのだろう。ピリピリという嫌な刺激を感じる。
ウェットスーツを着けた僕の体は、ずいぶんと軽く感じられた。まるで背びれと尾びれがつけられたような気分だ。
できるだけマイペースを心がけながら、ゆったりとしたストロークで進んでいく。基本は3ストローク、1ブレスのリズムだ。肩や腕が疲れてきたら、時々ブレスト(平泳ぎ)を入れてみる。焦ってみたところでそんなにタイムが短縮するというわけでもない。だから僕の場合、1キロ23分程度が一番楽に泳げるペースなのだ。
折り返し点ではブイに旗がつけられており、監視員を乗せたゴムボートやカヤックが何人か波の上を行き来していた。まさかコースアウトすることはないだろう…と思っていたのに、同じペースの選手についていくと、その人自身がコースを外れてしまっていて慌ててコースロープを探すという始末。やはりコースロープのそばを泳ぐに越したことはない。
ブレスする際に顔を水中に戻しながら前方に視線を向け、コースを確認するという作業も必要だ。さらに途中、立ち泳ぎをしながら肩や首、腕のストレッチも入れてみる。ウルトラマラソンもそうだが、長時間の競技では、わずか10秒程度の時間でもストレッチやマッサージを入れるだけで、その後のパフォーマンスに大きなプラスとなる。
ゴールまで後500mというところ。ワセリンをあれだけたっぷり塗りたくってもウェットスーツの擦れる首や脇や肩の部分にはもう擦り傷ができているらしく、海水が傷口にヒリヒリとしみてくる。
海水をけっこう飲んだおかげで胸がむかつき始める。それとも朝食に食べたおにぎりがまだお腹に残っていたからだろうか。
後半、急に水温が低くなる箇所があってびっくりしてしまう。それに加えて、やや波が立ち始めて、平泳ぎをしていると体が上下に揺れるのを感じる。あまり気持ちのいいものではない。波をじっと見ていると波酔いしそうだった。
間もなくスイムのフィニッシュだ。これだけの集団で泳ぐのだから多少気合が入ったのか、3.9キロが実に短く感じられた。数年前までは、クロールで25mもまともに泳げなかったこの自分がトライアスロンをやっているというのも、本当に不思議な話である。
高校時代の先輩が勤める地元のスイミングスクールに1年近く通い詰めた。平泳ぎはできたし、クロールも形だけは何とかできたのだが、ブレス(息継ぎ)をすると顔が沈むのだ。特訓をしてもらって2ヶ月程度で何とか1kmは泳げるようになる。しかし、体が硬く、皮下脂肪が少ないせいで浮力もあまりない。スピードはなかなか上がらなかった。
スイミングスクールを退会して、職場の近くにある会員制の某スポーツクラブに移る。がむしゃらに泳いだのもこの時期であった。
朝、自転車で5キロ離れた職場へ。それから1時間で300mトラックを34周(約10キロ)走り、放課後は顧問をしている剣道部で稽古を2時間。夕方学校かスポーツクラブのプールで1~2キロ泳ぐ。余裕があればトレッドミルかエアロビクスで30分汗を流し続ける。幸い、学校にもトレーニングルームがあり、スポーツクラブでもウェイトトレーニングができた。1日3種目のトレーニングは大変だが、余分な時間はほぼ全てトレーニングに充てていたのだ。学校には、プールもある、300mトラックもある、トレーニングルームもある。自転車で通勤すれば、毎日がトライアスロンなのだ。
砂に手と足がつき、ゆっくりと立ち上がる。水の中でウェットスーツを脱ぎ始め、大きく深呼吸するといくぶん気持ちが楽になった。
スイムゴール。3.9キロを1時間35分で泳ぎ切った。クロールで泳げるようになってから2年半の道のりだった。
僕は、観衆が見守る通路を小走りでトランジションエリア(自転車やウェアやシューズを置いてある場所)に向かった。
(つづく)
(Illustration: "Swimmer" by Kay)