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カテゴリ:Travel
ブレンネル峠を越えるとイタリアだ。フォルテッツァに着くと、「ああ~、ここで鉄道を乗り換えてドッビアーコに行ったことがあったなぁ」と過去の旅行の記憶がよみがえる。それから夜行列車はボルツァーノに停まる。ここからコルティナまでバスで行ったこともあった。次の停車駅はトレント。トレントからはマドンナ・ディ・カンピーリオにも行ったけ…
そんなことを考えながら、ヴェローナに着く前には寝てしまった。 眼が覚めると、窓の向こうは暖かな光に満ちていた。ナポリに近づいたころ、車掌が起こしにやってきてドアをノックした。それはいいのだが、ノックのあと、ドアを開けるタイミングが早すぎる。連れが着替え中なのに… あれって、ワザとかも(苦笑)。 ナポリ駅で車両からおりる際、車掌はうやうやしく(?)手を貸してくれた。やはり、外は暖かい。 インスブルックとはえらい違いだ。ナポリ駅ですぐに、さらに南下すべく乗り換えた。南の明るい日差しのもと、ナポリからサレルノに向けて電車は進む。 サレルノには「カノッサの屈辱(1077年)」で神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門した教皇グレゴリウス7世の墓がある。なぜ皇帝に屈辱を与えるほど強大な権力を誇ったはずのローマ教皇の墓がこんなところにあるかというと、実は「カノッサの屈辱」には後日談があるのだ。教皇に許しを請うという屈辱を味わった皇帝ハインリッヒは、破門をとかれると、祖国で巻き返しを図る。そして大軍を率いて南下、教皇グレゴリウスをローマのサンタンジェロ城に追い詰める。そのときに教皇が保護を求めたのが当時サレルノを含めた南イタリアを実質支配していたロベール・ギスカール(ロベール・ギスカルド)だったのだ。 ロベール・ギスカールはイタリアの人間ではない。フランスのノルマンディー(オートヴィル村)出身のいわゆるノルマン人(バイキングの子孫)で、先に南イタリアに傭兵としてやってきて頭角を現し、「鉄腕」と畏れられた異母兄グリエルモを追うように、わずかな部下とともに南イタリアにやってきた。グリエルモの死後、独力でライバルたちを退けたロベールは、やがて南イタリア全域に武力で支配を広げる。ギスカールとはあだ名で「狡猾な」という意味だ。その過程で教皇グレゴリウスの領地を脅かすようになったロベールは、皇帝ハインリッヒ同様に破門されている。 神聖ローマ皇帝のハインリッヒは教皇に破門されたことで政治的な打撃をこうむり、わざわざイタリアに出向いて許しを請うハメに陥ったのだが(これが現代の日本人でも一度は聞いたことがあるであろう「カノッサの屈辱」だ)、ロベール・ギスカールは破門されたのちも精力的に南イタリア各地の征服を進める。それは一方では、ノルマン人によるサラセン(アラブ・イスラム教徒)やビザンチン勢力(名目上東ローマ帝国に属する諸侯)の駆逐という側面ももっており、後の南イタリアにおけるノルマン王朝成立の礎ともなっていく。一方、巻き返しを図ってきた北の皇帝ハインリッヒとの確執が再燃した教皇は、南イタリアにおけるロベールの支配地域が広がるにつれ、今度は逆にロベールの軍事力に頼らざるをえなくなる。 そして、教皇グレゴリウスが南下してきたハインリッヒの大軍に包囲されると、ロベールはグレゴリウスの援軍としてローマに向かう。いったんはローマを掌握したハンリッヒ軍だったが、ロベール軍の接近を知って撤退。ロベールはグレゴリウスをローマから救出し、ナポリの南、ソレント半島の付け根にある自らの支配地、サレルノに保護するのだ(1084年)。ロベールはその後すぐにビザンチン(ギリシア)に兵を進め、翌年病死。そのほんの2ヶ月前にはグレゴリウスもサレルノで憤死している。 サレルノで電車をおりたMizumizuは、ここからバスに乗り、ソレント半島のアマルフィに向かった。所要時間は1時間半ほど(道が狭いから混むとえらく時間がかかることも。ちょうど東京から伊豆へ行く道を想像してほしい)。バス代は1.65ユーロ。イタリアの公共交通機関ってビックリするほど安いなあ。タクシーは高いけど。 歴史の視点をサレルノからソレント半島に移すと、この半島の海に面した狭い土地に成立した街は、中世のある時代には、独立した都市(コムーネ、もともとは共同体という意味)として海洋交易で栄えていた。アマルフィに関して言えば、9世紀あたりから繁栄が始まり、アマルフィ共和国が樹立。そして国際的に長く影響力をもつことになる海洋法を成立させ、11世紀に入ると絶頂期をむかえ、一時ベネチアやジェノバと地中海覇権を争うまでになる。だが、11世紀後半のノルマン人ロベールの登場をきっかけに、その独立と繁栄に影がさしはじめる。1073年にロベールがアマルフィを支配下におくが、このときはまだ多くの自治権が認められていた。しかし、1130年に(両)シチリア王国が成立し、1131年に同国に征服されると、さまざまな政治的権利が剥奪されてしまう。その(両)シチリア国王の初代の国王がノルマン人ルッジェーロ2世。ルッジェーロ2世はロベールの弟の子供、つまり甥にあたる人物だった。 なぜ(両)シチリア王国の初代の王なのに「2世」なのかといえば、それは単に彼の父親、すなわちローベルの弟も名前がルッジェーロだったからだ。こちらは「王」にはならなかったが、ルッジェーロ1世として南イタリアの歴史にその名を残している。 (両)シチリア王国の一部になったアマルフィに共和国時代の輝きをが戻ることはなかった。他国(ピサ)からの侵略と略奪にさらされ、やがて14世紀には大きな自然災害で壊滅的な打撃を受け、歴史の表舞台から姿を消す。つまりアマルフィは、中世に興り、中世に繁栄し、中世が終わる前に終焉を迎えた、純粋なる中世都市なのだ。長く忘れられていた断崖絶壁の海岸沿いにある不便な狭い古い街。そこが今では中世文化のタイプカプセルとして脚光を浴びている。 半島の海沿いの狭いバスを大型のバスが行く。カーブに差し掛かると大きくクラクションをならす。2車線しかない道路、そこの対向車線もいっぱいに使わないとバスは曲がれないからだ。運転手はカーブのたびに思い切りハンドルを切っている。一歩間違えば崖から海にまっさかさまだ。神経使うだろうなぁ。でもイタリア人のドライバーってクルマこすっても結構平気(きれいなクルマで来てるのはたいがいドイツ人)だから、日本人とはちょっと感覚は違うかもしれない。 グネグネの道を1時間半。ようやくアマルフィが見えてきた! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.10.21 01:16:34
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