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カテゴリ:Movie
<きのうから続く>
1943年10月、『悲恋(永劫回帰)』は封切られると同時に爆発的なヒットとなった。初日、ラストシーンで観客がスタンディングオベーション。評判が評判を呼び、映画館の前は長蛇の列。列は日に日にのび、入り口に公安機動隊が配置される事態に。「ジャン・コクトーとジャン・マレーと聞いただけで、吐き気がする」(こういう人も多かったのだ。いくらコクトーが「ジャノはぼくの息子」とか言ったって、世間様はそうは思わなかった ↑ ジャン・コクトー美術館のウェブページにある写真。父親が息子を見つめる目つきにはどーしても見えませんが、コクトー先生)と言っていた評論家も、「ラストシーンは感動的」と称えた。「コクトーとマレーが関係しているにもかかわらず、映画は素晴らしい」と書いたアンチもいた。 モンパンシエ通りのコクトーとマレーのアパルトマンの電話は鳴り止まず、毎日300通以上のファンレターが届くように。マレーの美貌は、「民衆の中から突如現れたアントニウス」と絶賛された。 そう、コクトーが『悲恋(永劫回帰)』を書いたのは、マレーを誰もが認める大スターにするためだった。そのために、コクトーは他の仕事はまったく入れずに、長い時間をかけ、何度も推敲して台本を仕上げた。その苦労が報われた喜びをコクトーは日記にこんなふうに記している。 1943年10月20日 『悲恋(永劫回帰)』の成功は、一般大衆と愛好家を融和させることを狙っていただけに、ぼくには感激だ。目的は達した。 ジャン・マレーは大スターして認められた。 (ジャン・コクトー『占領下日記』より) さらにコクトーは日記中で、なぜか(苦笑)マルセル・カルネに一方的な勝利宣言をしている。カルネは以前マレーが憧れていた映画監督で、一時は独占契約を結んで映画デビューを考えていた。コクトーに台本を依頼し、カルネ監督で撮るはずだった映画のために、マレーはコメディー・フランセーズを舞台を踏まずに去るハメになり、マレーのためにコクトーが韻文で書いた『ルノーとアルミード』にも出ることができなかったのだが、そのカルネの映画は結局ドイツ当局の許可がおりずに撮影に入れなかった。困惑したカルネはマレーに、「君の気に入った映画があったら出てくれていい。いずれ一緒に映画を撮ろう」と約束する。それで、マレーは『燃える館』を経て『カルメン』『悲恋(永劫回帰)』を撮ることになったのだが、カルネはカルネで『悲恋(永劫回帰)』封切の前年『悪魔が夜来る』で高い評価を得ていた。 ところが、この『悪魔が夜来る』、鼓動する心臓や彫像、不動化する人物などがコクトーの以前の作品『詩人の血』と似ているのではないかという話になった。コクトー自身は何も言っていないにもかかわらず、「コクトーはカルネに真似されたとぼやいている」などとあちこちのメディアが書きたて、カルネがコクトーによそよそしくなる。さらに『悪魔が夜来る』以上に観客を動員した『悲恋(永劫回帰)』を見て、今度はカルネが、「ユベール(注:『悲恋(永劫回帰)』のカメラマン)はぼくの真似をしている」と言い出したことに、コクトーがカチンとくる。 「『悲恋(永劫回帰)』と『悪魔が夜来る』のイメージはまったく違っているのに、何を言っているのか。『悲恋(永劫回帰)』の最中には、『悪魔が夜来る』にぼくが抱いた嫌悪感が、ぼくを導いてくれたことがしばしばだった、ぼくにとっての問題は、カルネの無数の失敗に断じて落ち込まないことだった。カルネはのあの冷ややかな『詩的』物語では絶対に観客を熱狂させられなかった。『悲恋(永劫回帰)』の観客は、涙を浮かべ、感動して出てくる」――コクトーとカルネの間に生まれた溝ゆえか、はたまたコクトーと組んだ主演作品がカルネ作品以上のヒットとなったためか、マレーはその後カルネの映画にはなぜか出演していない。 マレーはマレーで、『悲恋(永劫回帰)』の空前のヒットを見て、1939年対独宣戦布告の日にコクトーがマレーに送ってくれた手紙を思い出していた。 「善良で勇敢なジャノ、ぼくにはわかっている。これからもぼくたち2人は、寄り添ってあまたの奇跡を生きるだろう」 その奇跡がまた1つ現実のものになったのだ。「ジャンには未来を読む力があるんだ」――マレーのコクトーに対する尊敬の念はますます高まった。 だが、この大成功は2人のプライベートな生活をほとんど崩壊させてしまう。電話だけでなく、呼び鈴も鳴り止まない。マレーの若い女性ファン、コクトーのファン(は、主に役者・芸術家志望の少年)がひっきりなしにやってきて、コクトーはまったく仕事に集中できなくなる。 ことにサインを求めるマレーの少女ファンは執拗だった。彼女たちは早朝から深夜まで2人のアパルトマンの真下にたむろし、奇声を上げ、茶番を演じる。マレーの部屋はパレ・ロワイヤル庭園に面した中二階にあったので、庭園から中が見える。呼び鈴が鳴る。マレーが玄関を開けに行く。それを見て公園のベンチにいる少女たちがドッと笑う。ドアを開けるとサインをねだられる。サインをしてマレーが部屋に戻る。また呼び鈴。同じことの繰り返し。 ついにブチ切れたマレーが、 「消えちまえ!」 とどなると、さっそくコクトーがお説教。 「この職業を選んだのは君だよ。にこやかに彼女たちの敬意を受けるべきだ。たとえいたずらであっても、挨拶には違いないだろう」 そのコクトーも『占領下日記』では、マレーファンの無遠慮ぶりを手厳しく批判している。「ジャノを見つけると、ドッと群がってくる少女たちは、ぞっとするほど淫ら」「ジャノとぼくがコメディ・フランセーズから出て、たった数百メートル歩いただけで、人が群がって一緒に歩いてくる。ジャノはサインぜめ。いつまでサインをしているのだろう」。マレーも常に部屋のカーテンを閉めておかなければならなくなった。 そんなある日、コクトーがシャンゼリゼでフランス国旗を押し立てて行進していたドイツ兵についていたデモ隊(つまりはフランス人の民間人)から暴行を受け、失明寸前の大怪我を負うという事件が起こる。もちろん屈強なマレーがそばにいれば、そんな目には遭わなかっただろうが、あいにくその日はコクトー1人だった。 さらにコクトーは、長年の友人であったドイツ人彫刻家アルノ・ブレーカーとの交友が問題視され、レジスタンス側からも糾弾されるという四面楚歌状態に。だが、どんなに批判されようと、コクトーはブレーカーとの交流をやめようとはしなかった。個人と個人の友情は政治とは無関係――それがコクトーの一貫した信念だった。 追い討ちをかけるように、ロブローを中心とする対独協力派が、ますますコクトーとマレーに対して弾圧的な批判をエスカレートさせていった。新聞紙上で猛威を振るう自分たちへの誹謗中傷に堪忍袋の緒が切れたマレーは、「今度はロブローを殺す」と心に決める。 そんなマレーの思いつめた気持ちに、コクトーはなぜかまったく気づかない(笑)。コクトーの関心は次のマレーのための戯曲に向いていた。だが、周囲の他の友人は気づいていた。彼らはマレーに、「アリバイ作りのため」と言ってブルターニュ地方へコクトーともども誘い出す。実際には、マレーに思い止まらせるためだった。 「ロブローを殺して、君が銃殺刑になったらどうする? アイツにそんな価値があるかよ」 マレーが殺人犯にならずにすんだのは、こうした友情があったからだ。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.04.28 19:26:11
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