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カテゴリ:Movie
<きのうから続く>
ヴェンテミリアを過ぎたあたりで、クルマを止めようと合図している男がいた。マレーがブレーキをかけ、窓を開けると、男が髭だらけの顔を突っ込んできた。 「どこへ行きますか?」 「ローマ」 「私もです」 マレーが考えるまもなく、男は助手席に乗り込んできた。 呆然とするマレー。男はあまりに、汚かった。スボンはぼろぼろにほころび、ほころびたところに黒いバンドのようなものを巻いてなんとかズボンらしきカタチを保っていた。シミだらけで穴のあいた、くすんだ緑色の上着らしきものを羽織っているがシャツはなし。長い間歩いてきたのだろう、履きつぶしたサンダルはソールがばっくりはがれかけていた。髭に覆われた顔はほとんど顔立ちがわからない。髪は――洗えばブロンドかもしれない。非常に痩せて、非常に汗臭かった。最悪の過去の持ち主であることは、容易に想像できた。 ――しまった。何でローマに行くなんて言ったんだろ。 そろそろランチの時間だった。彼と一緒では、町一番の安レストランに入ることさえ気が引けた。 「髭を剃って、散髪したほうが、気分がよくありませんか?」 おそるおそる聞いてみるマレー。ちょうど村に入ったところだった。 「そりゃ、そうしたいですよ。でも金がなくて」 マレーは床屋の前でクルマを停め、しかるべき金を男に渡した。 「待っててくれますか?」 金を受け取りながら、助手席からマレーを見つめて、男は不安そうなくぐもった声で言う。 「待ってますよ。そこのバールにいるから」 マレーのほうは相手の目を見ないようにしていた。男は床屋に入っていった。マレーはバールのテラス席に座った。 ――このスキにさっさと逃げ出したほうがいいんじゃないか? ――それは気の毒じゃないのか。床屋から出てきてクルマがないのを見たら、彼はどんなにがっかりすることか。 ――だって、相手は殺人犯かもしれないぞ。いや、強盗殺人かもしれない。何人殺したか、わかったもんじゃないだろう。 ――おい、ジャン・マレー。お前はいつも自分は幸運な人間だと豪語してるじゃないか。今お前がそうしていられるのは、誰のおかげだ? ジャン・コクトーに会わなかったら今でもお前は芽の出ない貧乏役者で、腐って世の中を恨んでいたかもしれないじゃないか。ポール(=コクトーのマネージャー)が止めてくれなかったら、今ごろお前はアラン・ロブローを殺した罪で監獄にいたかもしれない、いやゲシュタポに銃殺されていたかもしれないじゃないか。あの男とお前のどこが違うっていうんだ? 幸運に恵まれなかった人間にちょっとした奇跡を返すのは、むしろお前の義務じゃないのか? 俗人と聖人の声のしないダイアローグを聞きながら、マレーは逡巡した。やがて、床屋のドアが開き、見知らぬ男が近寄ってくる。 おや? 緑の上着? え? 彼か? 彼だ。見違えるような彼―― 「ああ、気持ちよかった」 声まで晴れ晴れと変わったようだった。 「髭をそったあと、熱いタオルで顔を拭いてもらいましたよ」 2人はクルマに乗り込み、再び出発した。 「あ~、つまり……」 マレーは相手を怒らせないように気遣いながら、おずおずと下手に出て言った。 「もしかして、新しいシャツを着たい、なんてことはないですか」 クルマはひと気のない道の脇で停まった。 ――おい、こんな寂しいところでクルマを停めるなんて、本気か? ここでカバンを開けたりしたら、お前を殺すかもしれないぞ。 目に見えない俗人が耳元でささやくのを無視して、マレーはスーツケースを開け、ズボンとシャツとサンダルを出した。 数分後、マレーのクルマは再び出発した。 痩せこけた男にはマレーのズボンとシャツは多少大きかった。 「ありがとう、シニョール・マライス」 シャツに入ったネームを男はイタリア風に読んだ。 「ローマに着いたら、洗濯して返しますから」 案外律儀なことを言う。 「いや、いいですよ。お古でいいなら、着てください」 「あなたはお金持ちなうえに、親切ですね、すごく」 「はあ……」 横目で見ると、助手席の男は膝の上で脱いだ上着とズボンを丁寧にたたんでいる。 ――着るのか? まだそれを? 水につけて揉んだだけで、どちらもボロボロになりそうだ。いや、もうすでに十分ボロボロだった。 「あなたは何をしてる人ですか? 社長さん?」 「いや、まあ……」 海岸沿いに、しゃれたレストランが見えた。 「食事にしませんか?」 「いいですね」 はずんだ声にマレーは苦笑した。すっかりこざっぱりした男とともに、マレーはまったく気兼ねなくクルマを停めた。 うやうやしくウエイターに導かれて、窓際のテーブルに座る2人。リビエラの陽光が降り注ぎ、窓ガラスの向こうでは、夏の初めの海が青く輝いていた。 「何にしますか?」 メニューを見ながらマレーが尋ねる。 「ええと……」 相手はひどく真剣に、メニューを見ている。 「アンティパストは、小海老のカクテルかな。このへんはうまいんですよ。ソースは自家製かな――聞いてみましょう。プリモはパスタだな。ポモドーロか、いやボンゴレ入りがいいかな。セコンドは、やはり魚かな。あれ、子羊もあるのか」 ――そんなに食うのか? 昼から? あっけに取られて男を見つめるマレー。そこでようやく、眼の前の彼が美男だと言っていい容貌であることに気づいた。ブロンドの髪に、黒々とした瞳。細面のとがった顎、鼻も細く、唇も薄めで繊細な印象だった。年はマレーより若そうだった。 ――あんなに髭だらけで、汚かったのに…… まさに『美女と野獣』を思わせる、お伽噺のような変身ぶりだった。 「ドルチェは食べますか?」 やけにくつろいだ口調で視線を上げた男は、自分を凝視しているマレーと目が合った。ふいに何を意識したのか、顔を赤らめ、髪をかきあげる元野獣。マレーは慌ててメニューを顔の前に立てた。 「え? ああ、デセール? いや、甘いものはちょっと」 「じゃあ、俺もドルチェはなしで。ここのスペシャリテは何か聞いてみましょうか?」 「そうだね」 「水は、ガサータにしますか」 「いいよ」 「ワインは?」 「いや、事故ったら困るからね」 「へえ、モラリストなんですね」 「モラリスト?」 男は指を鳴らしてウエイターを呼んだ。ウエイターとメニューを指差しながらあれこれ会話し、マレーにも話しかけながら、どんどん2人のメニューを決めてしまった。あまりに場慣れした態度に、またもマレーは驚いた。 「君はレストランから脱走してきたのかい?」 ウエイターが引っ込むのを待ってマレーは尋ねた。 「いや……」 悲しげに目を伏せる。 「親がローマでリストランテをやっていたんですよ。俺も子供のころから手伝っていて、あとを継ぐつもりだったんだけど、若気の至りでバカなことやっちまって……刑務所にいたんです。つい最近出所したばかり」 「その……何年入っていたの」 「長いですよ。本当に長く――人生を無駄にした。後悔してます」 しみじみとした口調だった。 「そうか……」 「あなたは? さっきも聞いたけど」 「刑務所って映画をやったりする?」 「映画?」 眉を寄せる。確かに、端整といっていい顔立ちだった。 「たまに見せてもらったけど、どうして?」 至近距離で向かい合って座ってもまったく自分を知らない様子に、マレーは多少がっかりした。 小海老のカクテルが2つ運ばれてきた。 「ソースは自家製だそうですよ。まあ、それが当然だけどね」 アンティパストは驚くほど美味しかった。マレーがそう言うと、男は自分の手柄のように得意げな顔をした。 職業の話ははぐらかしたまま、昼にしては重すぎる食事を終え、2人はローマに向かって出発した。元野獣はすっかり饒舌になり、さかんに冗談を言い、イタリアの太陽そのものの明るさでマレーの旅を照らした。2人は気が合うといってよかった。 夏の長い日も傾き、やがて西の空に消えていった。ローマに着くころには暗くなっていた。都会の明かりがフロントガラスの向こうに見え始めると、男は何か考え込むように、黙りがちになった。 「やっぱりパリより日が短いね」 と、マレー。 「もっと早く着けるかと思っていたんだけど」 「パリから来たんだ」 そういえば、彼の名前を聞いていなかった。だが、今さら聞くのも変な気がした。 「家はどこ? 近くまで行くよ」 「あなたはどこに泊まるんですか」 「マジェスティックだよ。ヴェネト通りの」 「俺もそのへんです」 「そのへんって……」 ――まさか、ホテルまで来るのか? 男は黙ったままだ。とうとう、クルマはヴェネト通りに入った。石畳の坂道をゆっくりのぼり、エントランスの前にクルマを停めると、ベルボーイが駆け寄ってきた。 「お待ちしておりました。ジャン・マレーさん」 「お願いです!」 クルマを降りようとするマレーに、男は真剣な顔で言った。 「俺を使用人にしてください。あなたの荷物運びでも靴磨きでも、何でもやります」 「いや、それは……」 面食らうマレー。恐らくその言葉は、彼の最大限の感謝のしるし、あるいは恩返しのつもりなのだろう。 「君を雇うことはできないよ。ぼくはフランス人だし、イタリアにはたまたま来ただけなんだ」 ベルボーイは荷物を運び入れ始めていた。マレーはクルマを降りて、ドアマンに軽く会釈してホテルへ入り、フロントに向かう。男はついてきた。 「フランスに連れて行ってください。掃除人でもいいし、料理も作れますよ」 「掃除人も料理人も、もういるんだよ」 マレーはやさしく男の肩を叩いた。 「君は家族がいるんだろう? ローマに。帰らなくていいのか」 「家族なんて、俺を待っちゃいませんよ」 「そんなことはないだろう」 ちょうどエレベータのドアが開き、身なりのいい女性2人連れが出てきた。すれ違ったところで、1人がマレーに気づいた。 「ジャン・マレーさんですか?」 「ええ……」 「ジャン・マレーですって」 たちまち興奮が顔に広がった。 「サインいただけますか」 懇願していた男を押しのけるようにして2人はマレーににじり寄り、手に持ったガイドブックを突き出した。男は驚いて後ずさる。 「書くものがないんですが……」 「書くものですって、あなたもらってらっしゃいよ」 女性の1人がフロントに駆け寄った。その様子に周囲の客も気づいた。 ジャン・マレー? ジャン・マレー? ジャン・マレー? あちこちでささやき声が広がる。あっという間に女たちがマレーを取り囲んだ。男はあっけに取られたまま、さらに人の輪の外に押しやられた。 「誰ですか?」 背伸びをしている近くの女に尋ねる。 「もしかして、映画スター?」 女は当然といったように頷く。 「ジャン・マレーを知らないなんて、あなた、監獄にでもいたの?」 マレーはサインに追われた。気になって目を上げると、男は腕をだらんと下げ、淋しそうな眼をマレーに向けて、離れた場所に立っていた。 われもわれもと差し出される本やらノートやら紙切れやらにサインし、ようやく誰もいなくなった。マレーは周りを見渡して男を捜した。ホテルの外にも出てみた。 『オルフェ』のウルトピーズさながらに、すでに男は姿を消していた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.07.13 17:57:07
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