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ジャン・コクトーが1946年に出版した『美女と野獣 ある映画の日記』。日本では、1991年に筑摩書房から全訳(秋山和夫訳)が出ている。タイトルが示すとおり、コクトーが美女と野獣を撮っていたときの日記なのだが、訳注が充実した素晴らしい翻訳本。この訳者は実によく調べて注をつけている。スピードばかりを重視する風潮の昨今では、これだけの仕事をする翻訳者は珍しい。
さて、この日記の中に次のようなコクトーの記述がある。「1945年11月8日 8年前サモアの海上で激しい日射が浴び続けて左の眼の下を赤く腫らせてしまったことがある」。そして「サモアの海上」という部分には、「8年前とすると1937年だが、おそらく1936年に『パリ・ソワール』紙の企画で『80日間世界一周』にちなんで世界一周の旅に出た際のことと思われる。ただし、コクトーの乗った船はハワイから、サン・フランシスコに向かっており、サモア海上とは少々無理がある」という訳注がついている。 翻訳するとき一番やっかいなのは、実は地名・人名などの固有名詞だ。特に地名表記には気を遣う。中国のような例外はあるとしても、日本では外国の地名は基本的に現地語読みにするから、英語の文章でドイツのMunichが出てきたら、「ミュンヘン」にする。「ミューニック」なんて書いてはいけない。それじゃどこのことか、読んでる日本の一般人には皆目わからなくなる。イタリアのTuscanyが出てきたら、「トスカーナ」。そのくせドイツ語のWienは現地読みの「ヴィーン」にはしない。これは完全に習慣的なものでウィーンと書く。この手のヨーロッパのメジャーな地名ならルールに従ってカタカナに訳すだけだが、聞いたこともない田舎町だと何語のルールに従ってカタカナにしたらよいのか一見しただけではわからないし、中国の地方都市なんぞが英語のスペルで出てきた日には、呪いたくなる。 地名は、それがどこの国なのか常に意識する必要がある。だから、読んでいて唐突な地名が出てくると、「あれ?」と思う。『美女と野獣 ある映画の日記』を訳した秋山氏も突然、フランスから遠く離れた南太平洋の「サモア」島が、コクトーの撮影日記の回想に出てきて「あれ?」と思ったはずだ。だからわざわざコクトーの周辺情報を調べて訳注を入れたのだ。このときの翻訳者の気持ちが、Mizumizuには手に取るようにわかる。だが、秋山氏の探究心には大いに敬意を払うとしても、注釈そのものは相当苦しい。確かにコクトーは記憶違いの記述がわりあい多い人ではあるが、「1937年ではなく1936年の世界一周旅行のことだろう。ただしこのときコクトーはサモアには行っていない」――これじゃさすがにアホみたいだ。 実は、Mizumizuも、コクトーとマレーに絡むまったく別の本で、まったく同じように、「サモア」という地名を見て、「あれ?」と思ったことがある。Mizumizuの場合は、『ジャン・マレー自伝 美しき野獣(1975年)』(石沢秀二訳 新潮社)が最初だった。この本には、「サモア」という地名が、たった2回だけ出てくる。 1つは昨日のエントリーに載せた、1954年6月にコクトーが心筋梗塞で倒れた際にマレーがコクトーにした「サモア島で、ジャンは真裸になり……」という話。もう1つは自伝の巻末に収められたコクトーがマレーに捧げた私的な秘密の詩。書かれたのは2人が知り合ってまだそれほどたっていない1930年代の終わり。それは以下のように、明らかに2人の性的な関係を暗示する生々しいものだ。 サモア 2人だけが島にいた夜 樹々の枝がぼくらを駆り立て、悪さを強いた 詰まらぬ欲望と言うなかれ 動物的メカニズムと言うなかれ マレーの自伝には、およそ15年の時を隔てて「サモア」島が確かに出てくるのだ。最初に読んだとき、この地名が非常に引っかかった。コクトーとマレーが実際にオセアニアのサモア諸島に行ったという話はない。フランスにも「サモア」という地名はない。それなのに、なぜ2人は「サモア」島と言っているのだろう? その疑問はマレーの自伝から12年遅れて出版された「ジャン・コクトー ジャン・マレーへの手紙」の全訳(三好郁朗訳 東京創元社)を読んでほぼ解けた。マレーは自伝でも一部コクトーからの私信を公開していたが、それは多少編集されていたことが、「ジャン・マレーへの手紙」ではっきりしたのだ。そして、自伝では削除されてしまった手紙の文言の中に、やはり「サモア島」について触れた部分があった。 1975年出版のジャン・マレー自伝 「ぼくのジャノ。 君の優しい手紙を、繰り返し繰り返し、読んだ。どうしてぼくが、『無関心』と君に思えたのかね? (中略)そして今夜、君を抱擁したとき、ぼく同様、君も感激した様子をはっきりと見た。 (中略)ぼくのジャノ、君を熱愛する……。 追伸 うまく書けず慙愧」 1987年出版のジャン・マレーへの手紙 「ぼくのジャノ。 君の優しい手紙を、繰り返し読みました。ぼくが、『冷淡』だなどと、どうしてそんなことを考えたのですか。(中略)今宵、君にくちづけたとき、ぼくははっきりとわかりました。君だって同じように感動していました(中略)ぼくのジャン、愛しています。 ジャン 本当に言葉足らずだったと、恨めしく思っています。ぼくが言いたかったのは、サモワ(=ア)島では、ぼくたちが本当に強く愛し合い、結ばれていると思えて、まさにかけがえのない幸福のひとときであった、ということです」 この2つは訳者が違うので文体がかなり違うが、同じ手紙を訳したのだということははっきりしている。手紙が書かれたのは、マレーがデナム・フードというゴロツキのアメリカ人青年に夢中になってしまったのを、コクトーが渾身の泣き脅しレター攻撃で取り戻したとき(詳しくは3月29日のエントリー参照)で、その感激をコクトーがマレーに書き送ったものだ。 だが、「ジャン・マレーへの手紙」(1987)で公開された「ぼくが言いたかったのは……」以下が、「ジャン・マレー自伝」(1975)では、全部削除されていたし(「うまく書けず慙愧」と「本当に言葉足らずだったと、恨めしく思っています」は同じ原文だろう)、「くちづけ」と「抱擁」という違いもある。もちろん、フランスで出版するに当たって手書きの手紙をタイプしたときに、どちらかのタイピストが「くちづけ」と「抱擁」を間違え、チェックでも見逃したという可能性もないではないし、日本で訳した際に、どちらかの翻訳者がうっかり誤訳した可能性だってゼロではない。 だが、一番考えられるのは、自伝を書いたとき、マレー自身が「くちづけ」という生々しい表現を、「抱擁」というやわらかな表現にわざと変えたということだろう。もともとの手紙にはあったはずの「サモワ(=ア)島では、ぼくたちが本当に強く愛し合い、結ばれていると思えて……」という具体的な記述を、わざわざ自伝では削除しているところから見ても。 「ジャン・マレーへの手紙」に出てくるサモア島はこの箇所だけなのだが、この「本当に言葉足らずだった……まさにかけがえのない幸福のひとときであった、ということです」のくだりは、「ジャン・マレー自伝」にある「サモア島」という詩に対するコクトーの自評だと考えると実にしっくりと来る。まず詩を書き、書いたあとに「あの詩は言葉足らずだったけれど……」と言い訳のような注釈を添えた。そういうことだろうと思う。そして、コクトーはのちのちまで、マレーへの手紙で「ぼくたちの愛は無人島にある」と書いている。無人島というのは、「2人だけがいた島=サモア」に通じる。 では、なぜサモアなのだろうか。サモア島の詩をコクトーが書いたのは、「ジャン・マレーへの手紙」から推測すると1939年。『美女と野獣 ある映画の日記』にあるように、コクトーが「サモアの海上で激しい日射が浴び続け」たのが1937年。そうすると、1937年に2人で「サモア島」に行き、その後その島の思い出の詩が書かれた、という話で辻褄が合う。繰り返すが、実際にマレーとコクトーがオセアニアのサモア諸島に行ったということは考えにくい。ましてや1930年代では、ほとんど不可能。では、1937年に2人はどこへ行ったのだろう? 答えは南仏の港町「ツーロン」。そこで何週間も過ごし、マレーは10月に幕が開く初の主演舞台『円卓の騎士たち』の稽古をし、コクトーは衣装のデッサンなどを書いた。そして、このツーロンへの旅行で、「私はジャンを愛してしまった」とマレーは自伝に書いている。(2人のツーロンでのエピソードについては3月26日のエントリー参照)。 ↑は『円卓の騎士たち』のジャン・マレー(右)。衣装デザインはコクトー ツーロンからそれほど遠くない海上にはちゃんと「島」がある。ボルクロル、ポール・クロ、ルヴァンという自然豊かな3つの島からなるイエール諸島。黄金の楽園とも言われ、ツーロンからなら気軽に行ける。無人島ではないが、ひと気のない場所も多いだろう。ルヴァン島は1931年からヌーディストに解放されており、1954年にマレーが病床のコクトーに語った「真裸で…」のイメージに重なる。しかも、マレーは1955年に、不思議な絵を描いている。 この絵の背景に描かれた海岸線は、イエール諸島のボルクロル島のノートルダム・ビーチ↓ にそっくり。マレーの絵には鳥がさかんに飛んでいる。この数は明らかにデフォルメされているが、描かれた場所が自然豊かな場所だというだろう。そして、布で下半身の一部だけを隠している男性は、マレー自身のような筋骨たくましい上半身をもちながら、顔はどこかコクトーのように細面で、髪が四方に伸びている。 だから、コクトーとマレーが言う「サモア島」というのは、地図上のサモア諸島ではなく、南仏のイエール諸島のことではないかと思うのだ。そして、そこは2人が「強く結ばれた」と思える秘密の島だったのだろう。1937年のジャン・マレーは、まだまったく無名の一美青年だった。有名になって失ったコクトーとのプライバシーを満喫できた短い夏。それをコクトーは詩にし、マレーはずっとあとになって病床のコクトーにファンタジックな逸話に仕立てて聞かせ、現実と願望がないまぜになったような絵に描いた。 そうやって2人だけの思い出を密やかに守りながら、自伝ではもっとも奥深い部分に直接触れたコクトーの手紙の一部はあえて削除した。『美女と野獣 ある映画の日記(1946年)』『ジャン・マレー自伝 美しき野獣(1975年)』『ジャン・コクトー ジャン・マレーへの手紙(1986年)』の3つに散らばって出てくる「サモア」を統合して考えると、そういうことになる。 <8月8日に続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.08.08 02:09:29
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