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<きのうから続く>
約束の10時になるのを待って、ジャン・マレーは小さな家のベルを鳴らした。70代の老婦人が出てきた。 「私がルロワ夫人です。お父さんの従姉妹です」 彼女はマレーを小さなサロンに招きいれた。 ルロワ夫人が語った父の生活は、母から聞いてイメージしていたものとはかけ離れていた。父はこの街でずっと1人で獣医として働いていたという。身体を壊して仕事をやめ、診察室だけを売るつもりが、家まで売り渡してしまうことになり、住む場所がなくなった。そこでたった1人の親戚だった彼女が屋根裏部屋を父に提供したというのだ。 「失礼ですが、ルロワ夫人。ご主人は?」 「とっくに亡くなりましたわ。私もこの年で、1人きり。お父さんの病気はとても悪くて私の手には負えませんし、病院に移るか養老院に入るか、あなたからも薦めていただけませんか?」 厄介払いをしたがっている口調だった。愛情ではなく義務感でマレー氏の面倒を見ているのは明らかだった。彼女が父の愛人であったことは、恐らく一度もないだろう。 「病気は、そんなに進んでいるんですか?」 「ええ。もう何も食べることができません。とても痩せていますから、お会いになって驚かないように。2年ぐらい前でしたか。あなたからお電話いただいて、お父さんはすぐにあなたに手紙を出したんですよ」 「え?」 「でも、お返事はいただけなかった。1ヶ月以上、お父さんは郵便屋さんが来るたびに、下に降りてきていたんですよ。あなたのお返事が今日来るか、明日来るかと待ちわびて……」 「ちょっと待ってください。ぼくは父から手紙を受け取っていませんよ」 「何ですって?」 「ぼくと兄もずっと父からの手紙を待っていたんです。全然便りがないから、何か連絡できない事情があるのかと……」 そこまで言って、マレーははっとした。母が半狂乱になって父に会うなと脅迫したとき、マレーは父に電話したことを母にしゃべってしまったのは、兄か兄の家族だと思っていた。 だが、よく考えれば、マレーの郵便係は母だったのだ。ファンからの手紙にマレーに代って返事を書き、マレーのサインをまねて送り返していた。つまり、母は父からの手紙を見つけ、開封し、すべてを知ってしまったのだ。 今回、たまたまジョルジュが郵便を取ってこなかったら? そう思い至って、マレーは暗澹となった。 「ちょっと待ってくださいね。お父さんがあなたに会えるかどうか、見てきますから」 そう言ってルロワ夫人は隣の部屋に行った。ドアを開けた瞬間、安楽椅子にかけている人の両足がちらりと見えた。夫人はマレーを招きいれた。 気がつくとマレーは父の腕に抱かれていた。満足に髭も剃れないらしく、頬の髭が痛かった。マレーは『美女と野獣』の撮影中、ありとあらゆる皮膚病にかかり、髭剃りができなくなったコクトーを思い出した。「入院させなければ血毒で死ぬ」と医師に脅かされ、病院のベッドで横たわっていたコクトーの頬は、ちょうどこんなふうだった。あのとき、コクトーはなんとか命は取り留めた。だが以前の身体には戻らなかった。 いつの間にかマレーの頬は濡れていた。父の涙だった。父はマレーを抱きしめたまま離さなかった。泣いているところを見られたくないのだろう。感動で胸が詰まった。抱き合ったまま、どれくらいの時間が流れただろう? やっと2人の身体が離れ、マレーは父の顔を見た。眼に飛び込んできたのは彼の青く、澄んだ瞳だった。これほど澄み切った明るいブルーの瞳を、マレーは見たことがなかった。マレーの瞳も青かったが、ずっとグレーがかっていた。鼻はマレーより細く、唇も薄かった。確かに痩せていたが、背は非常に高いようだった。マレーも大柄だったが、恐らくそれ以上だった。 父と子はしばらく、何も話せずにいた。だが、話始めると堰を切ったようになった。アンリの病気が重いことを話すのはためらわれたが、父のまっすぐな視線に負けて本当のことを打ち明けた。兄は余命いくばくもないのだ。「癌」という言葉に父はおののいたようだった。だが、すばやく自分の感情を抑えた。 「父さん、あなたは…… 役者というぼくの仕事や、ぼくの生き方を恥じていませんか?」 それは、マレーが一番気にしていたことだった。 「あそこの引き出しの中を見てごらん」 父は言った。マレーが言われるままに机の引き出しをあけると、そこにはマレーについて書かれた本が何冊も入っていた。コクトーの『ジャン・マレー論』もあった。 「そっちも」 言われるままに別の引き出しをあけると、スクラップブックが何冊もしまってある。スクラップには、マレーについて書かれた記事や、マレーの署名入りの記事がきれいに貼ってあった。デビューしたてのころからつい最近に至るまで、マレー自身もう忘れているような古いインタビューや小さなコラムまで漏らさずに集めてある。 「ジャン、お前は愛されるために生まれてきたんだよ。私はお前がどういう生活を送り、誰と一緒で、何を演じたかも知ってる。でも、私はお前の舞台や映画は1つも見たことがない。生のお前を見るのは、とても耐えられなかった。でも、これからは、きっと見ていられるだろう……」 「どうして1人で生活しているんですか?」 「お前のママンと約束したからね」 「約束?」 「家を出て行くとき、彼女は言った。『誓うけど、私、全然あなたを非難していないのよ』って。私は言った。『ぼくもだよ。誓って言うけど、20年でも30年でもここにいて、君を待ち続ける』って。その約束を私は守った。彼女とした約束という以上に、自分自身とした約束だったからね」 驚きのあまり、マレーは言葉を失った。 ――父さんはね、まだ小さいお前を理由もなく折檻するような男だったのよ。 ――貧乏な私たちをほったらかしで、愛人を作ってエジプト旅行をするような最低の人間よ。 母のヒステリックな叫び声が脳裏に響いた。 「どうして……」 長い沈黙ののちに、やっとマレーは口を開いた。 「じゃあ、どうしてママンはあなたの元を去ったんですか?」 「ママンはパリジェンヌだった。彼女は若く、美しく、賢かった。彼女がどれほど美人で魅力的だったか、お前には想像もつかないだろうね」 「父さん、もちろんわかりますよ。ママンは本当にきれいだった。ぼくは子供のころ、ママン以上に美しいお母さんを他に見たことなかったもの」 「だから、ここでは暮らせなかった。彼女にはパリが必要だった。だから、彼女は出て行ったんだ」 自分の元を去った女性をまったく非難しないこの男をマレーは好きになった。母の欠点と悪癖はマレーもよく知っていた。夫だった彼が気づかないはずはない。 彼の動作には自分に似たところが確かにあると思った。考え方や人との接し方も似ているようだ。獣医を職業として選んだからには動物が好きなのだろう。マレーも無類の犬好きだった。 「人生なんで、おかしなものですね。あなたは1人で生活して、ママンもママンで1人。おまけに幸せじゃないんです」 「幸せじゃないって? 何不自由ない生活をしているんじゃないのかい?」 マレーは沈黙し、やがて言った。 「父さん、ぼくたちは――同じ性質(きもち)をもっていますね」 アルフレッド・マレーは驚きと感動をもって、息子を見つめた。 シェルブールからパリへ戻る道々、マレーは父と自分の共通点を数えていた。それはいくらでも挙げられるような気がした。母がついてきた嘘は、他の数々の嘘と同様、マレーにはひどく悲しかったが、理解しようと努めた。きっとロザリーは、いつものように自分を独占したかったのだ。マレーの関心が別れた父に向かうことを恐れたのだろう。 マレーはパリからシェルブールに連日出かけた。父を入院させる。医師からは「余命数日」だと宣告された。 ある晩、マレーがシェルブールから戻ると母が楽屋にいた。 「ジャノ、どうしたの? こんなに遅くなって」 着いたのは開演ギリギリだった。少なくとも1時間前には楽屋に入るのがマレーの常だったのだ。 「シェルブールへ行っていたんだ」 「シェルブール?」 「そう。父さんが、とても重態なんだよ。もうあと数日しか生きられない。ママンがぼくから崇拝され、尊敬されたいと思ったら、一緒に行ってくれよ。彼の最後の、最大の望みはママンにもう一度会うことなんだ」 「ふうん……」 母の声は冷たかった。 「お前に崇拝されたいとも、尊敬されたいとも思わないけど、一緒に行ってあげようかね」 2人は夜行でシェルブールに向かった。マレーは連日の移動と舞台で疲れきっていたが、母はしゃべり詰めでマレーを眠らせなかった。話題はといえば、父の悪口だった。愛情のかけらもない話しぶりで、悪意に満ち満ちていた。マレーは少し反論しようとしたが、「お前はアルフレッドにうまく騙されたのね」と毒々しい笑い声をあげられ、すぐに諦めた。息子が父に好印象をもったことを察して、それを打ち砕こうとしているのだ――マレーにはそう思えた。 <明日に続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.08.15 00:08:13
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