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<きのうから続く>
ヴィスコンティは続けた。 「ぼくは、若いころ、自分の育った世界から、もっとも遠いところに行こうとした。ミラノには、ぼくの家系にまつわるモニュメントや歴史的な建造物がありすぎる……ぼくは血の重さに押しつぶされそうだった。――だが、今は戻ろうとしている。ぼくの魂のふるさとにね。――君の出会った少年もそうならないと、どうして言える? 君が得意なオイディプス王は、父親を殺す。オイディプスの2人の息子は、互いに殺し合う。そして、オイディプスに従った心やさしい娘アンティゴネーは、やがて叔父と対峙して殺される……」 「君の話は、すごく難解だけど……」 マレーは、打ちのめされた気分で言った。 「つまり、あの少年がいずれ、父親を殺すことになるかもしれないと、そう言いたいのか?」 「……そうだ」 「母親の復讐のために?」 「――父親が母親を殺した動機にも、よるだろうけれどね」 「シチリアでは、今でもあるのか? 肉親同士で血で血を洗うなんて、そんなテーバイの悲劇が?」 「シチリアでは常に悲劇が生まれる。それは常に、ギリシア的悲劇だ」 「そんな伝統を受け継いでいるのか? 今でも?」 「歴史や伝統や習慣というのは、ジャノ、あまりに重く、あまりに根深い。決して軽んじてはいけない。それは、長く強く個人を支配する。まったく違う世界から来た1人の人間のヒロイズムで、太刀打ちできるものじゃない」 「だから、君は『揺れる大地』の続編を撮るのをやめたのか?」 「もちろん、映画を撮らなかったのは、第一義的には資金の問題だ。だが……あるいは……」 ヴィスコンティは表情を変えなかった。だが、声は深い水底から響いてくるようにくぐもっていた。 「……そうかもしれない」 「もう一度だけ、あの子に会うのは、どう思う?」 「会いたいのか? なぜ?」 「だって……気になるから。すごく痩せて、すごく病弱そうだった」 「痩せて、病弱?」 「口では強がっていたけどね。きっと内心は不安だったに違いないよ。――せめて一度、暖かい食事だけでも……そう思うのは、いけないことか?」 「痩せて、病弱、か……」 第二の皿が運ばれてきた。カメリエーレが立ち去るまでのヴィスコンティの沈黙が、マレーには耐え難いほど長かった。 「じゃあ、ジャン・コクトー風に言おう――君は、きのう少年をクルマに乗せたとき、アルバノで降ろして、何か食べさせ、風呂に入れて、そのまま家に泊めることもできた。違うか?」 「それは、そうだけど……」 「だが、君はそうしなかった」 「いきなり、知らない子供を家に泊めるなんて、変だろ」 「そうか?」 「そうかって……」 「そして少年は、君が有名人だと知っても、連絡先を教えなかった。そうだろう?」 「それは……ぼくが彼を気に入った理由でもあるよ、たぶん。――ぼくの名前を聞いたとたんに、愛想がよくなる人間と違う」 「だから、それがジャン・コクトーの言う、『運命』の出した答えだ」 「……」 「ジャノ、ぼくは最初に君に会って、イタリアでの仕事を申し込んで断わられたとき考えた。――君がジャン・コクトーではなくて、ジャン・ルノワール(注:ヴィスコンティは当時ルノワールの助監督だった)のオーディションに先に来ていたら、どうなっていただろうかとね」 「たぶん、オーディションで落としたさ。ぼくみたいな大根役者」 マレーはおどけて言ったが、ヴィスコンティの声は真剣だった。 「――たった半年の違いだ。たった半年遅れただけで……ぼくと会ったとき、君の運命はもうジャン・コクトーに定められていた」 「ルキーノ……?」 「だが、そのおかげで、今も君とこうして食事をしている。あのとき、君がイタリアに来ていたら、むしろぼくたちは、もう――」 何かしら息苦しいような雰囲気が2人をつつみ始めた。 カメリエーレがワインを注ぎにこちらに来るのを見て、マレーはむしろほっとした。 再び2人になったとき、空気はほんの少し変わったようだった。 「だから、ぼくは……ぼくと君の運命には感謝している。――実のところぼくは、君ほど長く付き合った友人というのは、ほとんどいないんだ」 「そんな……冗談だろう?」 「いや、本当だ――」 ヴィスコンティは一瞬沈黙し、それから、言い聞かせるような強い口調で言った。 「――君は彼に会っちゃいけない。それが運命の声なんだ」 「君は反対なんだね?」 「そうだ」 「捜すことにも?」 「そうだ」 「運命に逆らうなと?」 「……ずいぶん粘るね」 そう言われて、急に恥ずかしくなった。教養と自制心のかたまりのようなヴィスコンティにこんな話をした自分は、バカだったかもしれない。名も知らぬ南の国から来た少年に固執するなど、きっと呆れているのだろう――マレーはうつむいた。 「いや、その……そんなつもりじゃないけど」 「じゃあ、もっと別の言い方をしよう。――少年は危険だ。彼にとっても、君にとってもね」 「ルキーノ、だから、ぼくにはそんな趣味は……」 顔を上げたとたん、ヴィスコンティの鋭い視線と眼が合った。マレーははっとした。人の心の奥底まで見抜くような洞察力を備えた眼。やはり、それはピカソと共通していた。 同時に、少年時代のある記憶が脳裏に蘇ってきた。普段は忘れている記憶――それは、ウジェーヌ・ウーダイユの次に母の愛人になったジャックという男にまつわるものだった。 ジャックは、世の父親以上に優しかった。 「君は女の子みたいにかわいいね」 とマレーに言った。ふだん荒っぽい悪戯ばかりしていた腕白坊主は、「女の子みたい」と言われて妙な気分だった。だが、 「母さんにそっくりだ」 という言葉には、素直に喜んだ。 ジャックは寄宿舎に入ったマレーに会いに来てくれ、遊びに連れ出し、お菓子をたくさんくれた。 母が長い旅に出て――実際には刑務所に入っていたのだが――不在だったある日、ジャックはマレーを映画に連れて行った。無声映画時代末期の『ベン・ハー』で、マレーはすぐに古代ローマの世界に夢中になったが、ジャックはマレーの顔ばかり見ていた。途中でマレーが、なぜ映画を観ないのかと尋ねると、 「君の顔を見てると筋がわかるんだよ」 と、暗闇の中から囁いた。 映画のあとで、ジャックはホテルに行った。そこに忘れ物があると言って。ホテルの部屋に入るとジャックは、マレーをベッドに座らせ、何度か頬や髪にキスしたあと、手をとり、導き、彼自身の快楽の手伝いをさせた。少年だったマレーには初めての体験だった。そして、行為が終わると、ジャックはマレーを見つめ、髪を撫でながら、マレーが泣いたり、嫌がったり、恐がったりしていないのを確かめた。マレーはただ当惑し、身体をかたくしていた。ジャックは後始末をし、最後に愛情のこもったキスをマレーの頬にして、 「お母さんにも、誰にも、このことは言ってはいけないよ」 と口止めをした。 ヴィスコンティは、マレーがジャックと同じ類いの人間だと言っているのだろうか? だが、彼が、 「……ことに自分が若さを失いつつあると気づいたときにね――少年ほど危険なものはない」 と言ったとき、それはまるでマレーも誰も存在しない場所での、ヴィスコンティだけの独白のようだった。 それから、ヴィスコンティは再びマレーを正面から見つめ、結論づけるように言った。 「養子を取ることに反対はしない。だが、少なくとも、ジャン・マレーの養子になることの意味を、自分で理解できる年齢の子にするべきだ。――12歳の少年には、幸運の重さは理解できない」 カメリエーレが第2の皿を片付けにやって来た。それから、フルーツとデザートを載せたワゴンがうやうやしく運ばれてきた。 食事のあとのエスプレッソは庭で、とヴィスコンティはマレーに言った。そして、カメリエーレを呼んで、テラスの日除けの傘を広げるように指示をした。 <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.09.01 04:41:04
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