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時代というのは、ときに一般人の予想を超えたスピードで急激に変わる。人類史に残るような大きな出来事が起こったときでも、同時代に生きている人々はその意味をしばらくは理解できないでいることが多い。
今の金融危機もそうだ。アメリカのサブプライムローンが問題視されはじめたのは、アメリカの不動産価格が下がり出した2006年の秋ぐらいだと記憶しているが、そのときはまだ、「アメリカ全体の経済規模に対してサブプライムローンの比率などわずかなもの。たいした問題にはならない」と専門家の多くは楽観的だった。 だが、2008年10月のアメリカ株式市場の大暴落を受けて、一挙に悲観論が世界を覆いつくした。今は「100年に一度の経済危機」とまで言われ、この状態が1929年10月に起こり、結局は戦争でしか完全には解決できなかった大恐慌と同じなのか違うのか、誰も予想がつかないでいる。 1939年、25歳だったジャン・マレーも、当時世界で起こりつつあったことをまったく理解できないでいた1人だ。その年の初めには、舞台『恐るべき親たち』の成功を受けて、映画のオファーが多く舞い込み、いよいよスクリーンにも本格的にデビューしようとしていたのがマレーの個人的状況。コクトーは『恐るべき親たち』の映画化を決め、セットを組んでカメラテストもしたのだが、ヒロインの配役をめぐって出資者とコクトー&マレーが対立し、映画化は流れてしまう(『恐るべき親たち』の映画化が実現するのは1948年)。 プライベートでもアツアツだったコクトーとマレーは、「映画はまた作ればいいさ」とばかりにはさっさと諦めて、サントロペにバカンスに出かける。このときのバカンスが「私の人生で最上のもの」だったとマレーは自伝で回想している。 そして1939年9月、第二次世界大戦勃発。 サントロペで開戦を知ったマレーは、パリへ戻ると自分がすでに動員されていたことを知る。それでも若いマレーはまだ、何が起こったのか、起こりつつあるのか理解できない。「私には現実が少しも信じられなかった。戦争が起こったとは考えられなかった。そんなことは大ぼら吹きのだまし文句だと思ったのだ」(ジャン・マレー自伝より)。 マレーは「1週間で帰れる」つもりで出征する。 「この戦争が理解できなかったし、ましてや受け入れられなかった」(ジャン・マレー自伝) もちろん戦争が1週間で終わるわけはなかった。マレーが動員解除になるのは戦争勃発からほぼ1年後。だが、出征中もマレーの頭にあるのは、コクトーに何とかして会いたいということと、次に上演を企画している芝居の役のことだった。 マレーは駐屯地からしょっちゅう姿をくらまし、パリへ舞い戻ってコクトーと密会していた(それでいいのか? おフランスの兵隊)。コクトーのほうも戦場のマレーに、「2週間も君に会えないなんて耐えられない(オイオイ、相手は出征中だよ)。なんとか近くまで行くから」と手紙を送っている。 マレーの出征が長引くにつれ、生活に窮したコクトーは、マドレーヌ広場の広いアパルトマンを出て、モンパンシエ通りの小さなアパルトマンを借りた。コクトーが戦場のマレーにあてた手紙には、「ぼくはいま、ささやかなアパルトマンのペンキ塗りに懸命です。君がいつも話しているあの年月、ぼくたちの出会いにふさわしいものになってほしいあの未来のために、エデンの園を用意しておきたいのです」(『ジャン・コクトー ジャン・マレーへの手紙』三好郁朗訳 東京創元社)とある。 その2人の「エデンの園」がココ。 門の左にはこんなプレートがある。 実際にマレーが動員解除となり、パリへ戻ってきて、コクトーと一緒にここに住むのが1940年の9月。マレーは1948年にこのアパルトマンを出るが、コクトーは死ぬまでここをパリの生活拠点とした。 もともとは裕福な家庭に育ったコクトーだったが、当時の経済状況は最悪で、マレーが動員解除になるころにはスカンピンになっている。 Mizumizuが特に気に入ってるのは、このころ、つまり1940年7月にコクトーがマレーに送った手紙の一節。 「確かにぼくたちは破産です。やむをえません。また取り戻しましょう」 せっかく芝居が大ヒットしたと思ったら、戦争が始まり、パリはドイツに占領された。そして、2人は一文無しに。それでも、「また取り戻しましょう」というのが、ふるっていてイイ。 マレーのほうも破産でクヨクヨしているふうでもない。パリでコクトーが用意してくれた「エデンの園」を見たマレーの印象。 「モンパンシエ通りのアパートは中二階にあり、ビーバーと呼ばれる半円形の窓がついていた」「このアパートはすぐさま、私がこの世でいちばん好きな場所となった」(ジャン・マレー自伝より) アパルトマンは、パレロワイヤル庭園を囲む回廊 と、モンパンシエ通り に挟まれた建物で、地下鉄利用だと「パレロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーブル」からもすぐ。ルーブル美術館と逆方向に行くだけ。 パレロワイヤル庭園を囲む回廊は日本人はあまり来ないが、フランス人観光客の姿はよく見る。 この回廊は時代に取り残されたような雰囲気があり、骨董品とか、ずいぶんと流行遅れのドレスとか、えらく高い革の手袋(たぶんパリの職人の手作りで、モノはすごくいいんだろうけど)とかを飾ったショーウィンドウが並んでいる。誰がいまさら買うんだろう? 回廊の北側にあるのは、ミシュランの星つき高級レストラン「ル・グラン・ヴェフール」。 とっても入りにくい雰囲気だ。ミシュランの星が今いくつなのか知らないのだが、ミシュランはミシュラン、盲目的に信仰するほどのものではない。フランスでも日本でも、一部の人間がミシュランの星の数で騒ぎすぎている。 このレストランのために、コクトーはオリジナルの絵皿をデザインしている。コクトーのレストランとも言われているが、実際には、ここの料理は少し凝りすぎているとコクトーは思っていたらしい。 キャロル・ヴェズヴェレールによれば、コクトーが病気になったとき、ヴェフールのシェフが、何か作って持っていきましょうと申し出た。体調どん底のコクトーが、「目玉焼きが食べたい」と言ったところ、有名シェフは戸惑って、「目玉焼きですか! 私もいつか目焼きが作れるようになりたいと思ってはいるんですよ」と答えたという。 最晩年に出版した『私のジャン・コクトー』の中で、マレーはモンパンシエの2人の愛の巣を次のように述懐している。 「アパルトマンは、庭園の地面の照り返しで間接照明されている地下室のような感じだった。目を覚ますとすぐ、私たちは電灯をつけなければならなかった」「モンパンシエ通り36番地の小さなスペースを、私たちは『恐るべき親たち』の中でと同じように、家馬車と呼んでいた。ある魅力が私たちと一緒に棲んでいた」(『ジャン・マレー 私のジャン・コクトー』岩崎力訳 東京創元社) マレーは同書で、このアパルトマンへ帰っていくとき、「禁断の町へ入っていくような気がした」と書いているが、今もその雰囲気が強く残るのは、リシュリュー通りからモンパンシエ通りの北の端へ抜ける小さなパッサージュ。 アーチの上でかしいだ、鉄製のランタンの表情がいい。 モンパンシエ通りのほうが、賑やかなリシュリュー通りより低い場所にある。小さなパッサージュは狭く暗く、そしてとても短い。知らなければ見逃してしまいそうなひっそりとした抜け道だ。ここを通って階段を降りていくと、湿った日当たりの悪い、そして静かなモンパンシエ通りの看板が見える。現実には、細い抜け道から裏通りに出るだけなのだが、騒から静へ、陽から陰へ、その鮮やかな変化は、まさに「禁断の町」へ立ち入っていくかのよう。 たまたまここで、カメラをもった高校生ぐらいの一群に会った。日本風にいえば修学旅行生といったところ。彼らは屈託なく、禁断の町への階段を駆け抜け、パレロワイヤル庭園のほうへ走っていった。 モンパンシエ通りは「閉ざされた通り」で、パレロワイヤル庭園の周囲を廻るだけで、他に行き場がない。リシュリュー通りは開かれた通りで、サン・トノレ通りからモンマルトル大通り(地下鉄リシュリュー・ドルーオ駅東)まで長々と続いている。 パレロワイヤル庭園からリシュリュー通りに出れば、観光客に人気のギャルリー・ヴィヴィエンヌもすぐ。ここはパリでもっとも美しいと言われるギャルリー(ショッピングアーケード)で、これまた有名なサロン・ド・テ、ア・プリオリ・テでちょっと休むのもいい。 ギャルリー・ヴィヴィエンヌの紹介は、こちらのブログがとてもよく書けている。 http://salut.at.webry.info/200706/article_1.html 地図もついていてわかりやすいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.03.13 02:02:42
[Art (ジャン・コクトー&ジャン・マレー)] カテゴリの最新記事
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