万雑658_中臣清麻呂宅で宴会をした時に作った歌5首(大伴家持_158)
次は、天平宝字二年(758年)2月、中臣清麻呂の邸宅で宴会をした時に家持が作った歌5首(4498、4501、4503、4506、4509)です。
4498_「はしきよし今日の主人は磯松の常にいまさね今も見るごと」
※_「親愛なる今日の主人よ、磯松のようにいつも変わらずにいてください。今見ているように」と歌っています。
4501_「八十種の花は移ろふ常磐なる松のさ枝を我は結ばな」
※_「諸々の花は色あせ散ってゆきます。常緑樹である松の枝を私たちは結びましょう」と歌っています。
4503_「君が家の池の白波磯に寄せしばしば見とも飽かむ君かも」
※_「お宅の池の白波が磯に寄せるように、しばしば見ても飽きるような貴方ではありません」と歌っています。
4506_「高円の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば」
※_「高円の野の上の宮は荒れてしまった。お立ちになった君の御代が遠くなって」と歌っています。
4509_「延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも」
※_「(延ふ葛の)絶えることなく偲ぼうと思う大君がご覧になった野辺には、標縄を張るべくだよ」と歌っています。
備考;大伴家持の経歴と関連する出来事
養老2年(718年)ころに生まれた
天平8年(736年)家持が19か20歳で秋の歌4首(1566~1569)あり
天平10年(738年)内舎人としてお目見え
天平11年(739年)6月;家持の妾が死去
※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱
天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕
※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在
※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都
天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?
※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都
天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去
※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す
天平18年(746年)正月;天皇の詔に応えて詠んだ歌(3926)
天平18年(746年)3月10日;宮内少輔に任命される
天平18年(746年)7月に越中守として越中国に赴任
※_越中国在住中の歌が223首ある
天平感宝元年(749年)4月14日から7月2日までの元号
天平勝宝元年(749年)7月2日に聖武天皇から孝謙天皇に代わった
天平勝宝2年(749年)3月頃;家持の妻の坂上大嬢は越中に居ました
天平勝宝3年(751年)7月17日に少納言に任命される
天平勝宝3年(751年)8月に帰京
天平勝宝6年(754年)4月5日、兵部少輔(兵部省の次官)に任じられる
天平勝宝6年(754年)11月1日、山陰道の巡察使に任じられる
天平勝宝7年(755年)2月に難波で防人の検校に関わる
天平勝宝8年(756年)2月から4月、聖武天皇(太上天皇)、孝謙天皇、光明子の親子3人うち揃っての難波行宮に家持が同行
天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武天皇崩御、古慈斐の朝廷誹謗事件
天平勝宝9年(757年)6月16日に兵部大輔に任ぜられる
天平勝宝9年(757年)6月28日、橘奈良麻呂、大伴古麻呂らの謀反発覚
天平宝字元年(757年)8月18日、孝謙天皇は元号を天平宝字に改元
天平宝字元年(757年)右中弁に任ぜられる
天平宝字2年(758年)6月16日に因幡守に任ぜられる。三階級の降格
※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です
天平宝字6年(762年)に帰京
天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ
神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ
神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)
延暦4年(785年)_8月28日死去
家持の作った歌の掲載巻別の歌数;
巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済
巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済
巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済
巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)_済
巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)_済
巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)_済
巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)_済
巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)_済
巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)
以上