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カテゴリ:折々のバカ
かれこれ10年ほど前のこと。80年代前半まで7~8年関わったミニコミ喫茶が閉店することになり、最初で最後の同窓会が開かれた。
ほとんどの人とは15年ぶり以上の再会で、それはそれで感動的だった。 同窓会というのは、基本的に成功者の集まりである。アウトローで同窓会に参加するような鉄面皮の恥知らずはわたしくらいのものだ。 市民運動(注・市民によるスポーツイベントではない。無農薬野菜の普及、障がい者のボランティア、冤罪事件被害者の救援のほか、地下鉄に「原発反対」のビラ貼りをしたり、右翼を殴るのが趣味のやつがいたりするなど、いわゆる反日共系で非新左翼党派、つまりいわゆる雑多な無党派「アカ」の集合体)の拠点として機能していたこの喫茶店の関係者は、高学歴者が非常に多かったため、弁護士こそいないものの、議員から大学教授、労働組合の大幹部、NPOの理事長といった錚々たる顔ぶれが並んだ。 翌日は中でも特に親しかった人たちだけで集まった。かつては毎日のように集まって、背広を着た上に化粧をして居酒屋に行く、などというハプニング的なおバカをやって遊んだ仲間である。 わたし以外はみな出世した連中だ。革マル派をテロったり、三里塚闘争や学園闘争で逮捕歴があっても、旧帝大さえ出ていれば出世できるということをそこで知った。 出世していても、そこは弱きを助け強きをくじく市民運動の関係者である。上場企業管理職のようなイヤミな人間はいない。 しかし、ひとしきり話したあと、つまり懐かしさという感情が落ち着いてみると、漠然とした違和感がわきおこるのをどうしようもなかった。 そのときの違和感をずっと温めていた。その違和感には何かとても大事なことがあるような気がして、折にふれて考えた。 あの愉快だった仲間たちが、まあ仕事人間になってしまったのはわかる。元々優秀な人たちだから、職場でも信頼され重要な仕事を任されている。それが生きがいになりプライドになるのもわからなくはない。 それでは、何が変わったのか。アメリカ映画を続けて何本か観たとき、はっと気がついた。 アメリカ映画は、脚本がよくできているものが多い。悲しい別れのとき、絶体絶命のピンチのとき、激しい口論のとき、物事がうまくいったとき、どんな場合でも、セリフの中にユーモアがまじる。 これがアメリカ文化というものなのだろう。言葉でケンカができず、すぐ手が出たり感情的になって泣き崩れたりする日本人とは国民性が根本からちがう。 そう、かつては数分おきにジョークを連発していた連中が、中年になり、全くといっていいくらい言わなくなっていたのだ。 何が変わったと言って、彼らのユーモア力とでも呼ぶべきものの減少もしくは消滅である。何しろ偏差値の高い人たちだからそのジョークはレベルが高かった。それだけに、よけいに激しい変化を感じたのだった。 実際には、歳をとるほどにユーモア力は増すはずだ。ユーモア力とは、一面では文脈力であり連想力である。文脈力や連想力は、人生経験を経て見聞や知識が増えるほどに加速度的に高まる。若いときは瞬間芸的ジョークしか言えなくても、歳をとると意味の含有率の高い、つまり含蓄のある複雑なジョークを言えるようになるものなのだ。 笑ってはいけないのに笑ってしまうような、不謹慎なジョーク(注・たとえば「笑える投資サイト」を参照のこと。あるいは綾小路きみまろの著書)を言えるようになるのがおとなというものだ。 ローマは一日にしてならない。彼らの「ユーモア力」も、少しずつ減少して、長い年月のうちに消滅しかけてしまったのだろうと思う。 そのいつの時点でもいいから、なぜ気がつかなかったのだろうか。体重だってそうだ。倍とか3倍になる前に、なぜ気づいて対処しなかったのか(笑) 人間は歳をとる。内面も外見も変化する。しかし、生理的な加齢は避けられないにしても、精神的な加齢(や肥満や乾燥症)はある程度避けられる。自分の「ユーモア力」が減ってきたことに気がついたら、手遅れにならないうちに対処すべきなのだ。 ユーモア力の減少に気づかなかったのは、「ユーモア」を大事なものだと思っていなかったからだろう。 どんな暴君もユーモアを殺すことができない。わたしは高校生のころショスタコーヴィチの「交響曲第13番」に使われているエフトシェンコの詩で知ったが、それはつまりユーモアこそが生き延びるための知恵であり、人類を破滅から救うただ一つの思想の種子であるということにほかならない。 ゴルバチョフがソ連共産党の書記長になったとき、これでソ連は崩壊すると思った。なぜなら、ゴルバチョフはジョークを言う人だったからだ。 ナチスと日本軍国主義とスターリンの恐怖政治とポル・ポトの粛清と中国の文化大革命とマッカーシズムと連合赤軍の同士殺しとアルカイダと黒シャツ隊とイスラエル軍と機動隊には共通点がある。 ユーモアのほぼ完全な欠落である。 ユーモアは精神の余裕から生まれる。自分を振り返ってみても、余裕のないときはジョークが出ない。しかし、死の床にあってもジョークを言える人はいる。そういう人こそ大人物というべきだろう。 ユーモア力を身につけるには、ほかのことと同じで、まずマネることだ。ザ・ニュースペーパーや綾小路きみまろや瞬間芸的ではない漫才や落語、コメディー映画などでネタを仕入れて、それを知らないと思われる人に使ってみるのだ。 それを繰り返すうち、しだいにオリジナルなジョークを言えるようになる。世の中をナナメに見る柔軟性も身についてくる。 ユーモアのおそるべき力を知らずその重要性を理解しない人間をバカと呼ぶことにどんなためらいも必要ではない。 そこでユーモア力の減少したみなさまに綾小路きみまろを一発。 「体重計、そーっと乗っても、デブはデブ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
December 4, 2009 01:39:40 PM
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