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カテゴリ:クラシック音楽
ガラコンサートを批評するのはヤボだが、そのヤボをあえてしよう。
メーンは17時からの佐渡裕指揮PMFオーケストラ。バーンスタイン「キャンディード」序曲、チャイコフスキー「ロココの主題による変奏曲」、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」。 最も秀逸だったのは「ロココ~」のソリスト、チェロのセルゲイ・アントノフ。長いフレーズも短いアクセントも、決して固くならない柔らかい美音がすばらしい。自己顕示やケレンの皆無な自然な演奏には、時間が止まってほしいとさえ思った。 1983年生まれとのことだからもう30代だが、こんな逸材をいままで知らなかったのは不覚。2007年のチャイコフスキー・コンクール優勝者とのことだが、コンクール出身のソリストにありがちな技巧の一人歩きがまったくない。こういう演奏家は熟成した音楽をやるようになるものなので目を離してはならないし、今回も大曲をきいてみたかった。 ミュンヘン教授陣以外では、何と言ってもナカリャコフとこのアントノフ、そしてアブドゥライモフの3人が今年のPMFの精華だったと思う。 次によかったのは「キャンディード」。この曲に関しては佐渡は第一人者というか世界ナンバーワンと思える。曲想の切り替えなど的確で堂に入ったものだ。 しかし、ベルリン・フィル定期で指揮して話題になったショスタコーヴィチはいただけなかった。基本的にはベルリン・フィルとの演奏と同じ傾向で、中間2楽章が遅く、フィナーレはやや速め。しかし冒頭楽章を含めて表現が念入りにすぎて重苦しい。特に疑問だったのは第2楽章で、弦や管のソロに不自然なリタルダンドが多すぎて音楽から品格が失われてしまっている。あの感動的なピークのある第3楽章も、その高揚がどこか作り物めいて力みに感じた。 編成が大きい、というか大きすぎるのは音楽が重くなった一因ではある。公開リハーサルのときに合わなかった部分はアンサンブルが破たんしていたが、本番では自然に合うとでもオーケストラの力を過信したのだろうか。 このクラスの名曲になると、凡演でも大きな示唆や感動、時には啓示すら受けるものだ。しかし佐渡の演奏からは、赤軍の友人をスターリンに粛清された作曲家の怒りも悲しみも、独裁者やその追従者に対する鋭い諧謔やあてこすりも、何も聞こえてこなかった。 たとえばフィナーレ。最後の部分でショスタコーヴィチはティンパニに大太鼓を重ねている。この部分のリタルダンドは、指揮者や演奏者に緊張を強いるだろうし、音響としても激しい。ハッピーエンドではなく、この音楽で表された悲喜劇はよりおそろしいかたちで繰り返されると、作曲者が警告しているようにきこえることがある。 思い出すのは、歴史は繰り返される、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、というマルクスの言葉だ。 喜劇として繰り返される悲劇は一度目より悲惨だと言っているようにきこえることがあるが、この日の演奏は名曲がただの大音量で終結したという印象しか残らなかった。 ベルリン・フィルとの録音をきいたとき、ベルリン・フィルが佐渡を招聘することは二度とないと思ったが、その印象はさらに強まったし、シリアスなプログラムで今後彼を聞こうとは思わない演奏だった。 さて、15時からは金管アンサンブルで「リトル・ロシアン・サーカス」、天羽明恵のソプラノでラフマニノフ「ヴォカリーズ」、小山実稚恵のピアノでリスト「愛の夢第3番」、チェロのアントノフと小山の小品の演奏をはさみながら、名取裕子による「セロ弾きのゴーシュ」(宮沢賢治)朗読といった趣向の変わったプログラムと、東儀秀樹、セルゲイ・ナカリャコフとPMFオーケストラの共演が続いた。 こうしたプログラムを漫然ときくのは退屈しそうだったので、目的を変えた。つまり、キタラ・ホールの音響確認のためと割り切って、プログラムが変わるたびに異なる席で聞くことにした。 驚いたのは、サントリーホールはおろか、ウィーンのムジークフェラインなどと比べても遜色がないどころか、もしかしたら優れているのではと思わせる音響のよさだった。 それらのホールより優れているのではと思われる点は、席による音響の変化がきわめて少ないこと。どの席でもそれなりにいい音がする。サントリーホールやムジークフェラインは1階席はあまりよくないが、キタラホールは端でさえもそれほど悪くない。 音色も、特に邦楽器の繊細な弱音が遠くまで届くのに驚いた。一度、ムジークフェラインで「ノヴェンバー・ステップス」など聞いて比べてみたいくらいだ。 演奏では小山の風格が際立っている。この人は、20年以上前、札響定期でコンチェルトをきいたときに大成する豊かな音楽性を感じたが、彼女の身体から伝播した音楽がピアノから立ちあられてくる、といった印象を与える現存するほとんど唯一のピアニストではないかとさえ思う。過去の巨匠の数十人の数百枚の録音が束になってかかっても、彼女のひく小品の数分の風格に及ばないという気がする。謙虚な人柄も演奏からうかがえるが、「大ピアニスト」と呼んでいい数少ないひとりなのはまちがいない。 彼女のような演奏スタイルなら、キタラ大ホールのようなホールの後ろの方の席でもソロをきいてみたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
September 12, 2014 06:37:02 PM
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