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Jan 11, 2007
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カテゴリ:小説 上杉景勝
「お屋形さま、何事にございます」

 御前に姿をあらわした本庄繁長が、精悍な顔に不審な色をみせている。

「先刻は許せ、まず一献飲め」  影虎が大杯をあたえ言葉をつづけた。

「皆のまえで打擲(ちようちやく)いたしたことを詫びる、それには訳があったの

じゃ。明日、上田長尾家に使者として参れ」  「ご使者にございますか」

「こたびの政景殿の不始末は穏便といたし、一郡は安堵いたす。ほかに用件が

ある、我が姉と喜平次顕景の両名を春日山城で庇護いたす。顕景は二ノ丸に

入り、御中城(ごちゅうじょう)さまの名を与える」

 影虎本人は本丸におり、実城(みじょう)さまと呼ばれていた。これから察すれ

ば、長尾喜平次顕景は上杉家の跡目を約束されたことになる。

「畏まりました。して宇佐美家はいかがなされます」

「宇佐美家には特赦(とくしゃ)はない」  「越後の名流にございますぞ」

「繁長、我家に武田の意を含む者が忍びおる、それ故にそちを打ちすえた。宇佐

美定満は武田家に内応いたし、政景殿を謀殺したのじゃ」

 直江信綱と本庄繁長の顔色がかわった。  「まことにございますか?」

「そちたちも用心いたせ、武田は甘言(かんげん)を弄して入り込む」

 苦しい言い訳をして影虎が大杯を干した。

「繁長、長尾家は我が縁筋、本家と分家が争ってはならぬのじゃ」

 こうして落飾(らくしょく)して仙桃院と改名した姉の綾と、喜平次顕景は影虎の

庇護をうけるために、春日山城に引きとられた。

 影虎は最愛の二人を城に迎え、心が浮き立っていた。人には語れぬが、倅の

顕景と彼にとり生涯無二の女性である姉が、この城にいる。これが影虎を溌剌と

させた。

 戦国の世は、永禄八年を境として大きく変わろうとしていた。尾張の織田信長

が勢力をのばし、甲斐の武田家も領土を拡張していた。

 それにつれ駿河の今川家は義元の死から、武田と徳川により領土を侵食され

昔日の面影を失いつつあった。

 影虎は永禄四年鎌倉八幡宮で、山内上杉家の名跡を継ぎ関東管領(かんれ

い)となっており、名を政虎(まさとら)、輝虎(てるとら)と二度も改名しているが、

ここでは影虎として話を進める。

 この時期の上杉家は、信玄の策謀にのせられ東奔西走していた。

 信玄は永禄八年に織田家と結び、石川本願寺の顕如(けんにょ)とも軍事同盟

を締結し、駿河を勢力下におくべく南進戦略を画策していた。

 その最大の敵が越後の上杉家である。越後勢の牽制として本願寺の顕如を

つうじ、越中の一向門徒衆に一揆を扇動していたのだ。

 影虎が関東や信濃に出馬すると、間髪をいれず越中に一揆が起こり、背後を

脅かされた上杉勢は軍を返せざるをえない。こうした時期が数年つづいた。

 永禄十一年三月、あの本庄繁長が影虎に反旗をひるがえすことになる。

出羽庄内地方に勢力を拡張し、戦国大名への野望をつのらせた結果であった。

 この本庄に眼をつけた武田信玄は、本庄繁長と同盟を結び、越中の一向門徒

と共同して反上杉戦線の構築を策した。

 それを知った影虎は、精兵一万三千で越中の放生津(ほうじょうづ)に出陣し

た。越中を平定せねば、信濃、関東に討ってでられぬ。

 本庄繁長は、この機をとらえ反旗をひるがえした。岩舟郡には上杉方の鮎川

盛長(もりなが)がおり、本庄勢と小競り合いを繰りかえし時を稼いでいる。

 影虎は越中から軍を返し、十一月に本庄城の攻撃を開始した。それは影虎

得意の風来電過の如くの勢いであった。

 この合戦に十四歳となった、長尾喜平次牡顕景が初陣した。

 本庄勢は圧倒的な上杉勢の攻撃で、翌十二年三月に降伏開城した。

 本庄繁長は影虎に忠節を誓い、重臣として返り咲き、のちに景勝と名を改め

た顕景を盛りたて、会津まで供をするのであった。

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Last updated  Jan 11, 2007 09:10:36 AM
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