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Dec 20, 2011
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カテゴリ:暗闘
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     「武田信玄」(二)

 信玄の野望とは何か、父の信虎を放逐した彼の狙いは信濃と木曽の攻略

であった。それを妨げるように存在している大名が、名門、諏訪家であった。

 領主の諏訪頼重(よりしげ)は信虎の三女のねねを娶っており、武田家とは

縁戚関係にあった。

 信玄が家督を継いだ五日後に、頼重は信濃守護守の小笠原長時と謀って

韮崎に軍勢を進めたのだ。その原因は舅の信虎を追放した信玄の行動を

恨んでのことであった。信玄は時を移さず出陣し諏訪、小笠原の連合軍を

破り、信濃に追い返している。

 更に信玄は諏訪家の分家である、高遠城の高遠頼継(よりつぐ)が諏訪本家

の乗っ取りを謀っていることを知り、彼と内応し諏訪領に侵攻し諏訪頼重の

軍勢を破り、頼重を甲府の東光寺に送り、そこで自害をさせている。

 この時の同盟者の高遠頼継は諏訪全土を狙い、諏訪に駐留する武田勢を

追い払ったが、信玄は諏訪に軍勢を向け頼継の兵を壊滅させたのだ。

 頼継は高遠城に逃れ、小笠原長時と連合し武田勢と対峙することになる。

 こうして信玄は諏訪全土を手中に納めたが、信濃占領まで十二年もかかる

のである。この信濃の合戦は佐久郡の笠原清繁の志賀城攻略をはじめとし、

小笠原長時の深志城と属城、村上義清の葛尾城を攻め落とし、ようやく信濃

攻略を果たすのであった。

 敗れた信濃の諸将は越後の上杉謙信を頼り、五回にわたる川中島合戦へ

の布石となっていくのだ。

 この謙信との出会いが信玄の将来にとって極めて重要な要素となり、彼の

上洛の夢の実現が困難になるとは、信玄にも考えが及ばないことであった。

 この頃、関東には北条氏康が覇をとない、駿河には今川義元が上洛の機会

を窺っていたが、今川が三河を狙って軍勢を発すると北条が駿河に侵攻し、

その隙を狙って越後の上杉謙信が関東に侵入する、いわば三すくみのような

状況となっていた。

 一方の信玄も信濃全土の攻略戦を開始すると、謙信が信濃に現れので

攻略戦を中止し、川中島に陣を張り越後勢と対決する羽目となるのである。

 これに業を煮やした信玄は石山本願寺の顕如と謀って越中の一向門徒衆

の決起を促す作戦に出るのであった。

 こうした事態を憂慮した、今川家の軍師太原雪斎の進言で「善徳寺の会盟」

所謂、三国同盟が成るのであった。これは武田家、今川家、北条家の同盟で

この時、北条氏康の娘が今川義元の倅の氏真に、信玄の娘は北条氏康の

嫡男の氏政に嫁すことに決まった。信玄の嫡男義信には義元の娘が嫁して

いるので、三家の婚姻同盟であった。

 この同盟で三家は後顧の憂いなく領土拡張の合戦が出来る状態となった。

 これを契機に信玄の上杉家に対する態度が、大きく変化をみせるのだ。

 謙信との約束を平気で反故にして木曽を攻略占拠し、越後の豪族に調略の

手を伸ばし、謙信から離反させる戦術をとるようになった。

 こうした時、将軍の義輝の要請をうけ謙信は上洛し、正親町天皇にも拝謁し

たが、信玄はこれを好機とし、謙信支配の高井郡に侵攻し諸城を陥した。

 謙信は権威にも心から敬意をはらったが、信玄は単に権謀術策としての

利用価値しか感じていなかったのだ。

 いよいよ日本は戦国時代に入ったのだ。今川義元が上洛の軍を発し駿河を

立ち、桶狭間で織田信長の強襲を受け、壮烈な戦死を遂げる事件が起こっ

た。嫡男の氏真は武将の器がなく、父親の弔い合戦もせずに遊興に溺れ今川

の力が、とみに落ちていた。
 
 信玄にとり駿河が絶好の標的となったのはいうまでもない。彼は塩の道を

確保したかったのだ。この駿河侵攻に反対した人物が、信玄の嫡男の義信で

義兄の氏真を討つことに猛反対をしたが、信玄の意志は固く義信は己の家臣

と武田家の重鎮の飯富兵部と謀って反逆を企てるも、信玄の知るところとな

り、義信は幽閉され、家臣は殺されたり追放されたりした。    

 だがこうした事件が起こっても、武田家は一枚岩であった。信玄は他国には

なんの躊躇もなく権謀術策を行ったが、領民や家臣等には温かい抱擁力で

彼等と接していたのだ。これが信玄の本質なのかは分からないが、占拠され

た地方でも武田家に叛く者は皆無であった。これは特筆ものであり信玄の

人間としての器の大きさが知れる一事であった。    続く





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Last updated  Dec 20, 2011 06:20:15 PM
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