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Apr 7, 2012
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カテゴリ:改訂  上杉景勝
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       「改訂  上杉景勝」 (64)


「お屋形、奥州の伊達と最上は徳川殿と関係を強め始めましたな」

「そうじゃな、我が上杉にとっても由々しき事態じゃ。聞けば多摩川にも

河川工事を始めたそうじゃ」

「それが完成いたせば東海道と直結します。軍用大橋になったら問題です」

「そちもそう読むか」

「太閤殿下の年齢を考えますと、将来の禍根かと存じます」

「なんと申しても二百万石の大大名じゃ。それも朝鮮の役を逃れ出血がまった

くない、末恐ろしいことじゃ」

 こうした会話を交わした景勝主従は、この年から内政の充実を最優先として

力を注ぐのであった。

 明けて翌年の一月十七日、上杉景勝は正式に越後、佐渡の金山支配を

秀吉から命じられた。その朱印状には直江山城守を代官に任じて、金銀の

運上額を報告するようにとしたためられていた。

 景勝は一ヶ月前に上洛しており、浅野長政より内命として知らされていた。

 これは朝鮮での軍事費の増大に対応する、施策の一環であった。

 この年の春に石見から金銀採掘の技術者が、佐渡に派遣されてきた。

 石見銀山の採掘の最新技術の伝授のためであった。

 このお蔭で相川金山と銀山の採掘量が飛躍的にのびたのだ。

 文禄四年の二月に上杉家にとり、運命的な人物を失うことになる。

 会津九十万石の当主の蒲生氏郷が急死したのだ。

『限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風』

 四十歳の若さで急死した氏郷の辞世の句である。

 彼の死は巷間(こうかん)に色んな憶測を呼ぶこととなる。謀殺、毒殺、

などなどであった。

 蒲生氏郷は織田信長の娘婿であった。彼は信長と秀吉に従い数々の

武功をたてた武将であった。秀吉は氏郷の出自に劣等感を抱いていた。

 氏郷の輝かしい過去の栄光が、秀吉にとり疎ましい存在であったようだが、

豊臣家の将来にとっては頼むべき武将であった。会津に移ってから体調を

崩し、臥せることが多くなっていた。彼は奥州の守護職として伊達、最上等

の牽制役としての努めがあった。

 また一説には彼の資質を妬んだ石田三成の讒言による、秀吉の毒殺説

などが風評となって流れたが、それを裏付ける証拠はない。

 ともあれ会津の要衝の地は、十三歳の蒲生秀行が継ぐことになった。

 会津への移封は氏郷にとり左遷であった。

『たとい小禄なりとも、都近くにあれば、やがては天下が望めよう。会津は

遠すぎる。なにが出来ようか、志は空しくなった』

と、嘆いたと言われる。彼には大志があったようだ。 

 本土でも数々の出来事が起こっていたが、朝鮮でも異変が発生していた。

 華々しい初戦から連勝を続けていた日本軍は、朝鮮水軍に制海権を奪わ

れ、明国が大軍を擁し朝鮮救援に駆けつけてからは、漢城を失い釜山近郊

へと押し詰められていた。

 秀吉は物資を運ぶ船団を救援として派遣したが、亀甲水軍の餌食となり

十分な補給物資のないままで戦いを繰り返していた。

 そんな最中に、将兵等の朝鮮軍への投降者が烈しくなっていたのだ。

 朝鮮側はそんな日本兵を降倭(こうわ)と呼んでいた。その数は数千名に

のぼったと言われている。

 初めの頃は朝鮮軍は降倭を殺害する方針であったが、この年を境として

優遇策に転じたのだ。

練達した戦闘力と優秀な鉄砲操作をもつ日本兵は貴重な戦力である。

朝鮮軍は彼等を「投順軍」と名付けた部隊を編制し、日本軍と戦わせるよう

になった。その代表が金忠善(キムチュンソン)である。

 彼は元は加藤清正の部下で沙也加(さやか)と言う。

 彼は戦闘が有利な時期に投降している、これは秀吉の朝鮮侵略戦争への

抗議を示すものであった。


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Last updated  Apr 8, 2012 11:42:48 AM
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