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カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」(117) 薩摩藩邸焼き討ちの報せが、大阪城の慶喜の許に伝えられたのは十二月 二十八日であった。この報せをもたらしたのが大目付の滝川播磨守と勘定奉行 並、小野内膳正の二人であった。 この報せを受けた慶喜の反応はどのようなものであったのか、彼は薩摩藩が 江戸で乱暴狼藉をしていることを知らなかった。 それを知った慶喜の態度を『明治政史、首編』は、このように記している。 「慶喜、この報を得るや、憤然として大いに怒り乃ち、会、桑両藩を先鋒と為し、 直ちに京師を攻めんと欲し、遂に左の軍配を施したり」 このように慶喜の戦意旺盛振りを伝えている。 この時期の京、大阪間の要地はすべて幕軍が占拠し、大阪城外の十四ケ所 の柵門は幕軍により固められていた。 慶喜は折悪しく風邪で臥せっており、将兵の憤激する状態を知らなかった。 そこに老中板倉勝静が訪れ進言した。 「将兵の激高を見ておりますと、此のままでは済むとは思われませぬ。早速、 兵を率いて御入京あそばされる事が肝要かと存じまする」 板倉勝静は朝廷を武力で威嚇し、薩摩、長州藩兵の撤退を命じて頂く、これ を画策していたのだ。 政権を返上した慶喜は、徳川家の頭領とし決断を迫られたのだ。 激高する将兵に毅然とした態度を示す、これがいまの彼の使命である。 彼はこの時期、鎮静ではなく戦闘を考えている節が見受けられる。 「君側の奸を除く」その為に会津、桑名の両軍を主力とし薩長を討とうとした。 彼は「討薩の表」を起草した。「薩摩奸党の者罪状の事」と題した五ケ条を 掲げた。この草稿が出来上がると諸藩を大阪城に召集し、それを開示し彼等の 兵を徴用した。更に滝川播磨守が討薩の表を携え上洛し、朝廷に奉る手筈を 整えたのだ。 慶喜の起草した討薩の表とは、どのような内容をもったものなのか、この文章 から当時の慶喜の心の襞を探ってみたい。 「大事件は衆議を尽くすべしと仰せ出されしに、昨月九日突然非常御改革を 口実とし、幼帝を侮り奉り、諸般の御処置私論を主張せらるる事」 「主上御幼沖(ようちゅう)の折柄、先帝の御依託あらせられし摂政殿下を廃し、 参内を止めし事」 「家来ども浮浪の徒を語らひ、屋敷に屯所し市中に押込強盗致し、酒井左衛門 尉屯所へ発砲し、野州、相州、処々に焼討強盗に及びし事は証迹(しょうせき) 分明なること」 (二条は省かせて頂きます) 以上の五ケ条であった。 これは薩摩藩に対する弾劾文そのものであり、倒幕派の公卿達に対する非難 めいた事は一切述べられてない。 これは不思議な事ではあるが、討薩の表として起草した文章ならば、ほかの 記述があることが可笑しい訳で、慶喜が意図的に省いたのかも知れない。 薩摩藩の江戸における乱暴狼藉に対する、報復の戦を朝廷に願いでる。 これが討薩の表の意義で薩摩藩の背後に、急進派の岩倉具視が糸を引いて いる事を熟知している慶喜は、これを奏上することで岩倉等の倒幕派の公卿 の動きを探り、牽制しょうとしたのだ。 もし万一、朝廷が徳川家の要求を蹴ったなら、一気に幕軍の総力を挙げて 上洛を果たし、王政復古、更に討幕の密勅を反故とする様に朝廷に圧力を かける、これが慶喜の思惑であった。 その根底には集権政治を成し、その議長に自分が座るという野心が見える。 数日後の気落ちした慶喜とは、全く違った人物が居るようであった。 この重要な表を携え、大目付の滝川播磨守は幕軍と共に上洛し、戸田大和守 が朝廷にそれを奏上する手筈と成っていた。 京は王城の地で軍事的な要地ではない。古来から攻撃を受けて勝ったためし がない。この京に入るには七口と呼ばれる街道が利用された。 鳥羽、伏見、丹波、大原、鞍馬、鷹ケ峰、粟田の七口である。 薩長土の三藩の軍勢は、京の南に位置する鳥羽、伏見に布陣していた。 小栗上野介忠順(1)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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